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親の誕生日だから虐待された過去について語る(ポジティブ)

虐待してきた親を許すことはとても難しいけれど、難しいことを成し遂げたあとには、大きな幸せが待っていると思う。
身体的・精神的な虐待を受けた過去は消えなくても、虐待をしていた親の背景を慮ることができれば、解釈は進展する。
私は発達障害があって育てにくい子だったし、父は本社での仕事に精一杯だった。
母はすさまじいワンオペ育児と都会のヒエラルキーに疲れて私に手をあげた。
こういうとき、一番立場の弱いものが犠牲になる。
それは仕方のないことだ。

あの時、発達障害の私が悪かったのか?
いやそんなことはない。
家族のために難しい仕事をこなすことで精一杯で、一切家庭を顧みなかった父が悪かったのか?
多分そんなこともない。
友人や家族とも離れ、厳しい都会でワンオペ育児を強いられ、子供を捌け口にした母が悪かったのか?
いや一概にそうとは言えまい。
どんな形であれ、私たちは家族の形を保とうと必死だった。
だからこそ、繋ぎとめられた今がある。

現在、両親は子供達に手をあげない親になっている。
そればかりか、虐待した時の罪を償うように生きている。
私がされたことは一生消えないし傷となって残るだろう。
ただ、私を傷つけた側が申し訳なく生きるのを見ると、「もっと自分を生きなよ」と思う。
あのときは仕方なくああやって生きるしかなかった、そうじゃないと自分が壊れてしまいそうだったんでしょ。
自分を壊してまで相手を守れる人はそうそういないから…
私はあなたたちが、子供を虐待してでも、自分が生きることに必死でいてくれてよかったと思っています。
だってあなたたちが死んでしまったら、私たちも生きていけなかったから。

親のことを完全に許したわけじゃないし、もう二度と一緒には住まないけれど、誕生日がくれば祝うし、できる限り長生きして欲しいと思っています。
私はまだまだ愛されたりないから、余生でたくさん愛してね。

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