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哲学対話はゲームであり愛という循環の教習場

2020/5/6

昨夜も哲学対話に参加しました。

ひと月ほど前に初めて参加してからかれこれ5回目くらいのことでしょうか。いずれもzoomでの開催のものです。こんな時期ですしね。


最初こそ「哲学」という言葉に気負っていたわたしですが、昨夜参加した回(男はなぜ/女はなぜ 性に苦しむのか? がお題でした)での参加者の組合せの妙なのでしょうか、哲学対話とは哲学を中心に据えたゲームなのだ、ということにようやく気付くことが出来ました。


ゲームだから楽しむためにあります。

そしてゲームであれ哲学であれ、ひとがそれをしたくてする時にはそこに「快」があります。


哲学対話のルールとしては参加者各自が(zoomだとだいたい10〜15人が多いようです)がひとつの脳のなかのキャラクターのひとりとなり議論・対立するのではなく対話をし問いを投げかけ合うもの、ということの確認がはじめに為されます。そして各々が普段の自分の名前・素性を捨てて、その場ではどんなことを言ってもいいという安全と自由が確保されます(但し、その場にいる誰かを不快にさせる発言・行動は一切禁止)。

何人かはこの哲学対話の場で会ったことがあるにしても、ほとんどがその場かぎり、そしてその日初めて出会うメンバーです。

これは生来の気質と哲学対話というものに馴染んでいるかということが若干影響するとは思うのですが、その場でインサイドヘッドのひとつのキャラクターとなって出された問いに対して自分の持てるものを素直に開示していく、というのは都度、知らずに設定していた自分のなかのブロックを解除していく作業でもあり、また時にセンシティブな内容をもその場に提供していくことは「場」への贈与であり、それにより対話が活性化し循環を強めていく状態を見ていると、哲学対話はなんとも愛の場ではないか、愛というものをゲーム感覚で体感出来る教習場のようではないか、などと思うのです。

これは冗談のようで冗談でもなかったのですが、そのことを昨夜参加者の皆さんとのふりかえりの時間に「哲学対話って乱交パーティーみたいなものと言えませんか?(注:乱交パーティーに参加したことはありませんが)」と投げかけてみたら爆笑とともに、そうだそうだ、と同意を得たのが印象的でした。

乱交パーティーだなんて、ひと月前の自分だったら口にするのも憚られる(いえ、今だって憚られはしますが)過激なワードですが、わたしが言いたかったこと、そしてその場の皆さんが受け取ったこととしては哲学対話という場で互いに自己を贈与しあい、それを受け取られ、他者から刺激され、問いをだしあうことで循環し皆でひとつのエクスタシー(真理)を目指す…ということのなかに、それはつまりセックスと同じではないか、わたし達は今知性だけを使って快感を呼び起こすセックスをしているのではないか?という気づきを得たのです。

また、「哲学対話=フォークダンス」説もまあまあの共感をもって受け取られたので、この非接触の時代にあって次なる快感はこうした対話型の循環を目指すところに集中していくのかもしれないし、もしかしたら今までわたし達が快感と思っていたものも実はそれを得るための行為諸々だったのかもしれないな、などと思っているところです。

ただし、これはもう仕方がないのですが全ての哲学対話がそういうものであるとは言えないでしょう。それはより個々への配慮と安全性に目を配った“幸せな”場である必要があり、また参加者の相性もあるはずです。スパークしない日だってある。それもまた、セックスと同じ…でしょうか?


さて、わたし達はいま色んなカタチで新しい世界に向けて模索する日々です。

2020年のゴールデンウィークも今日まででひとまずは終了です。なにがどうゴールデンだったのさ、と思う向きの方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしにはそれなりにゴールデンでした。

わかりやすいものではないけれど、それは内側で静かに気づき、辛抱強く自己の変容を待とうとする種が宿ったように感じている今です。

それを愛の種と名づけましょうか。

誰の内側にもすでに宿っている、芽吹きを待つ種。


新しく描きなおす地平に、そっと蒔いてみてはいかがでしょう。





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