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朧月夜に春想う

 けたたましい、そんな表現がぴったりの笑い声。やかましい集団を横目に、歩く。大学生だろうか。その後ろ姿には、怖いものがまるでなにもないような逞しさがあった。

「青春って、愚かだなぁ」

 少し前まで、自分もそこにいた。愚かしい時間、小さなことで泣いたり笑ったり。体の奥にあるなにかが、ぎゅうっとなる。そんな時間が、確かにあった。
 疲れた体に鈍った思考。繰り返す日々に疲弊して、何かをゆっくり楽しむなんてことは、しばらくしていない。
 まさか、就職先が見つからないまま春を迎えることになるとは思わなかった。もらっていた内定は、卒業間際に取り消された。小さな会社で、トラブルがあって一気に業績が悪化したらしい。吟味して吟味して、骨を埋めるつもりで選んだ会社だった。
 ふらつく体を立て直すことすらままならない。面接漬けの日々に逆戻りして、精神も肉体もそろそろ限界だ。

「…もうだめだ」

 それは、今の自分の全てを表す言葉だった。知らない街の知らない公園は、こんなわたしでも受け入れてくれる。ヤバイ思考。こんなとこでへばっちゃだめだって気持ちと、もうどうにでもなれって気持ちがぐちゃぐちゃと溶け合う。ベンチに横たわると、ひんやりと気持ちいい。このままずっとここにいたい。



「ちょっと、あんた!大丈夫か、具合でも悪いのか?」

 あちゃあ、誰か来ちゃったか。ここなら誰にも見つからないと思ったのに。ゆっくりと目を開けると、どうしようかと困り顔の男の人がいた。ぼんやりと、ただ思ったことを口にする。

「……おなかすいた」

 だって、手に提げた袋からおいしそうな匂いがしたから。朝からなにも食べてなかったし。そのコンビニの袋が差し出されてやっと、我に返る。まずい、なにを人様の晩ごはんを奪い取ろうとしてるんだ。山賊か、わたしは。いやいやいや、この令和の世に山賊って。
 だめだ、お腹がすきすぎて思考が覚束ない。あとで、お金で返そう。そう決めて、ありがたく目の前のお弁当をいただく。心にも、胃袋にも沁みていく。
 ぽつりぽつりと、こんな行き倒れ女の自分語りを、ときどき相槌をくれながら聞いてくれる。

「大変だったなぁ…でもさ、やらなきゃいけない状況なのは分かるけど、倒れたら元も子もないよ」
「ですよね、すみません」

 不採用通知を受けとるたびに、惨めさが増していく。焦りと、不安が離れずまるで自分の周りだけもやがかかったようで。

「謝らなくていいんだよ、にっこり笑ってありがとう!でいいの」

 頬を緩く左右に引っ張られる。それに助けられた笑顔ではあるけど、お礼はしっかりと伝える。まだなにも晴れないけど、少しだけ浮上したような気がする。お腹が満たされただけなのに、人間って不思議だな。それにしても、なんて親しみやすい人なんだろう。
 得体の知れないベンチで寝てる女に声をかけたばかりに、晩ごはんを奪われ、延々と愚痴のようなものを聞かされ、散々な目に遭ってるのに、心配して励ましてくれる。

「にしても、そんなになる前に帰ればよかったのに」
「いやなんか、家に一人でいると早まりそうで」
「あー…ね、これもなにかの縁じゃない?」
「?」
「家に帰りたくないなら、一緒においで。イイトコ連れてってあげる」

 絶対に、なにがあっても警戒心は捨てちゃいけないし捨てるつもりはないけど、着いて行ってみよう。もしこれで悪人だったとしたら、諦めよう。いや、なげやりな気持ちじゃなくて、本当にそれくらいもう信用してしまっている。え、待って。わたしってチョロい…?いやいやそんなことは。なんて、すっかり気持ちは前を向いていて。
 惨めな気持ちになっていたら、自分の状況を考えてみること。外にいて寒くはないか、雨に打たれてはないか、お腹がすいてないか。それら全て満たすと、惨めな気持ちってなくなるから。
 なんだったけ、なにかの記事だか動画だかでそんなことを言ってる人がいた。まさかそんなことでって思ってたけど、実際今お腹が満たされただけでわたしはこの状況だ。
 世の中には、すごい人がたくさんいるなぁ。わたしの知らないことを知ってる人、わたしを助けてくれる人、それから、底抜けに明るくいれる人。
 着いていった先は、いわゆるその、オカマバーのようなところだった。座らされて、ちょうどお客さんからいただいたケーキがあるのよって、お茶と一緒に出されて、いただきますと手を合わせると、教育が行き届いてるわぁと絶賛され、なんだか数年ぶりにるんるんした気持ちになる。
 ちょうどケーキを食べ終わって、ごちそうさまでしたとお皿を下げようとして、いいのよ、いやでもこのくらいはと押し問答していたところに、いつの間にか消えていたお兄さんがお姉さんになって戻ってきた。
 え、え、え、と戸惑っていると、綺麗にお化粧した顔にウィンクされた。さぁ、そろそろ開店よとパンパンといい音をたてる手。端の席で申し訳ないけど、ここにいてねと元お兄さんに飲み物を渡される。飲めるんなら、お酒もあるわよとカウンターからも声が飛ぶ。その活気に押されながら、お願いしますと元気よく答える。
 内定をもらってうきうきと作ったクレジットカードは、一度も使われることなく財布の奥に眠ってる。今日はこれを使ってしまおう。今晩だけの贅沢だ。また、頑張るためのご褒美だ。
 一生一度だと思って、目一杯楽しんだ。ピアノを伴奏に歌う元お兄さんはすごくすごくきれいだった。わたしは、その光景に恋をした。夢みたいな時間。結局、一世一代のクレジットカードは使われることはなかった。今日は就職祝いよと、お店みんなの奢りだと言われ、まだ就職決まってないですと辞退しようとしたら、なにもかもうまくいくようにの予祝よと押しきられた。涙で霞む視界で、それでも必死にきっと必ず、今度は自分のお金で楽しみに来ますと宣言した。

「ね、イイトコだったでしょ?」

 お兄さんに戻った姿に感動しつつ、はいと元気よく答える。週に一度、金曜日だけ歌ってるんだと教えてくれる。きれいでかっこよくてくらくらするようなあの時間。街の片隅のバーでひっそりと歌うこの人は、いったい何者なんだろう。聞こうと思って、止めた。

「ありがとうございました」
「そうそう、その笑顔よ」

 にっこり笑って、手を振って。名残惜しい気持ちを押さえながらのさよならは、なんだか切ない。春の夜の朧月を背中に、またねと言ってくれるお兄さんに、絶対に就職してまた会いに行こうと心に誓う。



「じゃあ、早く仕事に慣れてもらうためにも教育係をつけるから。もちろん、部署の全員がフォローはするけど、基本的にはその人に任せるからね」
「はい、よろしくお願いします」
「うん。あ、悠木くん。今日から入社の結城さん。教育係、よろしくね。いやぁ、漢字は違うけど同じ名字なんてね。偶然っておもしろいね」

 笑いながら去って行く部長に、偶然はそれだけじゃないんだよなぁと週に一度お姉さんになるお兄さん、悠木さんを見上げる。人間って驚きすぎると逆に冷静になるんだな、お兄さん固まってるな、なんて考えながら。

「これから、よろしくお願いします。あの、わたし秘密は守ります。あれが秘密でもそうじゃなくても」

 後半は小声でそう伝えると、ほっとしたように肩を下ろす。

「じゃあ、二人の秘密で」

 頷くと、しっかりした口調に戻って業務説明に入る。決して順調ではなかった就職活動が終わった。もう出会えないかもしれないと思っていた、骨を埋めたい会社に出会えた。折れてしまいそうになっていたわたしの心は、しっかりと救われて今、ここにある。
 わたしはあの日の歌声に励まされている、今もこれからも。重なった偶然を、舞い込んだ奇跡だと思って大事に大事にしていくんだ。ここからまた、始まっていくんだ。




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