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はつこい

 底なしの沼にゆっくり、ゆっくりと沈んでいくような感覚を、恋というものに当てはめてみる。
 初めての恋。それは、愚かしいほどに透明で美化されてしまった思い出。その彩りをきっとわたしは忘れることができない。


「ちょっと、待ってよー」
 まだ幼い、ころころした笑い声。それを見送るわたしは、いつの間にか大人になってしまった。なんの実感もないままに。
 大人になったつもりで過ごしていたあの頃、恋をしたのは母の友人の息子だった。連絡手段が今ほどなかったわたしたちは、文通をしていた。
 たった一度、映画館でデートしただけ。なんの映画だったのかすらもう覚えていない。手すら繋がなかった。
 そのあと、お互い受験で忙しくなり、少しずつ手紙の頻度は減っていった。終わったという感覚がないままに、日々の生活に追われて忘れていった。
 なぜ、今になって思い出したのか。

 
 平日、昼間の映画館。ものすごく珍しく、他に誰も入って来ず、一人きり。心地よい暗がりは、眠気を誘う。
 ほんの、一瞬だったと思う。眠ってしまったようで、びくりと体が揺れて意識が戻る。
「やば、寝ちゃってた」
 首を軽く振って、集中しようとスクリーンを見据える。そんなにストーリーは進んでいなくて、安心する。
「懐かしいね」
 右隣、聞こえた声。いつの間にそこにいたのか、人が座っている。おかしいな、いつ入ってきたんだろう。なんだかすごく怖いことが起きてるような気がしたけど、不思議と恐怖心はない。
 もしかしたら、実は起きてなくてこれは夢なのかもしれない。だったら別に、身を委ねてもいいか。
「この映画館、二人で来たよね」
「え…?」
 思わず隣を見る。薄暗がり、だけどこの近さなら顔は分かる。しかし判別できたその顔に覚えはない。
「あぁ、分からないかな。貴明だよ。君は子どもの頃の僕しか知らないからね」
「たかあきくん」
「久しぶりだね、ももちゃん」
「待って、なんで」
 わたしの知らない時間を過ごして大人になった彼に、同じように過ごしてきたわたしが分かるわけがないのに。
「実は僕、死んじゃったんだ」
「……は?」
 それは所謂、ユウレイというやつだろうか。いやでも、今まで生きてきてそんなものに遭遇したことはない。やっぱり夢か。
「なんでわざわざわたしのところに出てきたの?」
「この辺ふらふらしてたら、たまたま君を見つけてね。懐かしいところへ入っていくものだから、ついてきちゃった」
「そっか」
 夢にしても、まさかユウレイとして出てくるなんて。不謹慎だな。あれ、でも、死んだ人って夢の中では喋らないって聞いたことあるけど。
 まぁ、いっか。これが夢でも現実でも、こうしてるとなんだかほっとする。
「僕、あれが初めてのデートだったんだ」
「わたしだって。でも、あれってデートだったのかな?手さえ繋いでないのに」
「…繋いだよ?覚えてないかなぁ。ま、ほんの一瞬だったからね」

 帰り道、隣で揺れる手に、少しだけ触れた。

「………マジか。いやでもあれ、繋いだ、の?」
 本当に、一瞬だった。
「僕は、そのつもりだったけど」
 頬が熱い。青春の思い出は、恥ずかしい。でも、あの時間がなんだかすごく愛おしい。そのくらい、大人になってしまった。
「思い出してくれて良かった。ねぇ、甘酸っぱさが加わって、いい味になったんじゃない?」
「そーだね、ありがと」

 数日前に起こったことを思い出しながら、つい笑ってしまう。
 美化された思い出なんてもんじゃない、わたしの初恋はそのままに綺麗だった。愚かしく、透明な、幼い、わたしの恋。
 映画が終わり、明かりがつくと彼はもういなかった。終わった恋は切ないけれど、初恋の味は、確かにいい味になっていた。



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