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ファミリーヒストリー5 コレヒドール島

先日、郵便受けにB4サイズの茶封筒が入っていた。手に取ってみると差出人は厚生労働省援護局となっている。
その瞬間にピンときた。「これは曾祖父の軍歴証明請求の件」だ。
最初に請求書を送ってから2か月以上は経つだろう。その返答がようやく届いたのだ。
これまでの経緯は以下を読んでほしい。

茶封筒を小脇に抱え急いでアパートの2階に上がる。高鳴る胸の鼓動を感じながら封筒の封を鋏でチョキチョキと慎重に開ける。

中には6ページほどの調査結果の資料が入っていた。

「死没者調査票」と題された資料の2ページ目が上の資料である。
所管は舞鶴鎮守府、入隊が昭和19年4月1日。6月19日に「第331設営隊」に配属。7月19日に一等工作兵に昇進(海軍の階級では下から2番目で一番下は2等兵)。翌年の昭和20年5月1日に上等技術兵に昇進。

そして、昭和20年1月27日に「戦傷死 於比島コレヒドール島 弾薬庫爆発により重傷死亡」となっている。
曾祖父はコレヒドール島で弾薬庫の爆発により戦死するという壮絶な最期を迎えたようだということがこれで分かった。

残念ながらほかの資料にも同じことしか書かれておらず、これ以上の詳細は不明である。
仕方がない。今分かっている情報を手掛かりにさらに調べていくことにした。

コレヒドール島

まずコレヒドール島について調べてみた。google mapでコレヒドール島の位置を調べてみると日本から21000㎞以上離れた距離にあり、ルソン島のマニラ湾の入り口に浮かぶかなり小さな島である。

画面に映っているのはルソン島、赤いポイントで示されているのがコレヒドール島(小さすぎて見えない)

拡大してみる

ここまで拡大してようやく見えてきた。下の方にあるオタマジャクシのような形をした島がコレヒドール島である。面積は5㎢しかない。
沖縄の普天間飛行場が4.8㎢、厚木基地が5.069㎢であることを考えるといかにこの島が小さかったかわかると思う。
しかし、この小さな島はマニラを攻略する上で戦略上の要衝地とされ、日米両軍が壮絶な戦闘を繰り広げた地だった。

まずこの地を最初に占領していたのは米軍である。太平洋戦争開戦当初の1941(昭和16)年に日本軍が破竹の勢いで進軍していたとき、フィリピン方面の司令部はこのコレヒドール島におかれていた。司令官はあのダグラス・マッカーサーだ。同年4月にバターン半島の米軍は降伏し、マッカーサーが
「I shall return(必ず戻る)」との名言を残して退却したあともコレヒドール島の守備隊は1か月以上戦闘を継続したが、5月6日に降伏した。

そして、それから3年後に米軍はマッカーサーが宣言した通り、圧倒的な兵力でフィリピンに戻ってくることになる。

つづく

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