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「薬を飲まない」

こんばんわ。
明日一日お休みしたら、夏休みの終わってしまうため、少し憂鬱な気持ちです。

今回は認知症の患者さん、その人を取り巻くスタッフとの関わりの中で倫理的問題に立ち会い、苦悩したお話をしたいと思います。

ある日、認知症の方のカルテにこのように記載してありました。
「この方は内服を拒否します。
 食事が来たら薬を粉砕し、お粥に混ぜて出して下さい。」

ん?読んだ私は❓がたくさん頭に浮かぶと同時に
憤りを覚えました。

皆さんはどのように感じたでしょうか。

私が感じたこと
💊本人の意思に反して「騙して飲ませる」
 ように感じる
💊この方法が、どのしてこの様な結果になったのか
 議論されての方法なのか、一個人の意見なのかが 
 記録されていない
💊結果本人の反応や、効果についてどうなのかが、  
 わからない

特にこの意思に反して飲ませる
ということについては、私には曲げられない思いがありました。

最近よく耳にする

スティグマ

この言葉は差別や偏見を意味しますが
この出来事の背景には、このスティグマが隠れていると考えました。

このケースを認知症ではない人に当てはめたとき、
同じ手段はとりません。
どうして飲めないのか
味なのか、飲み込みにくいのか。
飲んだ時に出る不快な症状なのか
それとも何か他に不安があるのか…
こういった聞き取りをするのではないでしょうか。

なぜ?なぜ認知症の人は、飲みたくないのに
ご飯に混ぜるのか。
これは根底に
「認知症の人が、わからないから」という
大きなスティグマが潜んでいます。

この手法で内服できたとしても
これが成功体験となる看護師は
これから先、どのような看護師になるのか。

スタッフを交えてカンファレンスを開いてくださることになり、参加しました。

驚くべきことに、この方法はディスカッションなしで、複数の看護師によって決められていたのです。
本人たちは、「飲ませたい一心」それだけでした。
方法を行って、モヤつきを感じていたスタッフもいました。
確かに、疾患という一側面を見た時には、内服しなければならない重要な薬剤です。
しかしそれは、ただの一側面に過ぎず、中心にある
その人は置き去りなのです。

この方は、この方法で、お薬を混ぜていることに気づいていたのか、否か。その本人の反応さえも置き去りでした。

カンファレンスを通じて、
拒薬にかんして要因探求されていないこと
本来の本人の意思を確認していないこと
この方法が、スタッフで検討されていないこと
記録を追っても、わからないこと

日常に潜むこの倫理問題は
なかなか見えてきません。
気づいても指摘しにくく、黙認されていることもあるのではないでしょうか。

認知症の人が「人」として、安心な環境で過ごすためには、そこに関わる私達が、常に日常の中の倫理問題と向き合い、本人を軸にして目標を定める。それが大切なことなのだと思います。

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