完璧主義の敗北

 あっき~です♪

 新潟で、【柿農家】と【フォトグラファー】と【ポッドキャスター】と【在宅校正者】をしながら、四姉妹の父親をやってます。

 noteを通じて、【自分のこと】【日々のこと】などを雑多に書いていこうと思っています。

 この記事では、完璧主義な気質のあった自分が、それに挫折した体験談を書きました。完璧主義から解き放たれた結果、今は穏やかに暮らせています。よかったらご一読ください。

 この文章は、半ば衝動的に「書かねば!」となって急遽 筆をとりました。一気に書き上げた深夜の手紙のような文章であり、あまり文章を推敲するという過程を踏んでいません。でも、今回はこのまま公開しようと思います。まとまらない、感情の奔流のような文章のままで。たぶん、そっちのほうがいいと思うから。
 
 また、内容の一部にメンタルが落ち込んでしまっていた頃の内容が含まれています。心が弱っている人は、今は読まないほうがいいかもしれません。


完璧を目指すべき

 「あっき〜は完璧主義すぎるよ。サボり魔の私みたいに、もっと肩の力を抜いて生きてもいいんじゃない」

 中学校を卒業するとき、クラスメートの女子がぼくの寄せ書きに残した言葉です。当時の自分は、この言葉の意味がまったく理解できませんでした。

 もちろん、当時の自分が完璧だったなんてことは微塵もありません。さすがにそれは自覚できていました。でも、完璧ではない自分でも、完璧の方向を、自分にとっての最善を目指すべきだ。そんな風には考えていたような気がします。

 そうでなければ、自分が毎日食べている命たちに対して申し訳が立たない。奪った命の分まで、懸命に生きねばならない。進歩しなくてはならない。それを証明するものは、自分にとっての最善の結果だ。そんなことを、本気で思っていました。

 できないかもしれないけれど、諦めはしない。自分ならなんとか最善に辿り着けるはずだ。もしできなくても、それを目指すことをやめるべきではないのだ。そんな壮大な「べき」を自分の中に打ち立てて、惰性で生きているように見えた人たちを心のどこかで非難しながら生きていました。他人にも自分にも厳しいタイプの人でした。

家業を継いだ完璧主義者

 社会人になって丸10年となる2017年に、Uターンして実家の柿農家を継ぎました。祖父母から、両親を一代とばしての就農。この辺りの詳しい話は過去のシリーズでも書いているので、よかったらそちらの記事も読んでみてもらえたらうれしいです。
 
 就農当時の実家は、自分の目にはかなり辛い状況に見えていました。
 
 ワンマンをやめられず、常に自分の正義を譲らない祖父。
 ただひたすらに、自分に非はないことを主張し続ける祖母。
 なんの決断も相談もせず、知らぬ存ぜぬを押し通し続ける父。
 そんな中で板挟みになりながら、ヒステリックに感情をぶつける母。
 
 ぼくの勝手な思い込みだったのかもしれません。でも、それが紛れもない当時のぼくにとっての現実でした。
 
 だからこそ、自分が家業の柿農家を継ぎ、実家に顔を出しながら本気でがんばっている姿を見てもらえれば、きっと四人も変わってくれるはずだ。家族の関係は修復されるはずだ。円満な家族関係になれるんだ。そんなことを、疑いもせずに信じていました。

実家のこと 地元のこと

 そんな幻想は見事に打ち砕かれ、「あっき〜が継いだ。あー めでたしめでたし」という空気が実家には流れているように思えました。ほかの面倒ごともあっき〜に任せて進めよう。そんなことを考えているのではないかと疑い始めてしまう自分に、自己嫌悪を重ねる日々でした。
 
 それでも、できることをがんばるしかない。完璧にはできなくても、最善を目指すんだ。と、独りで空回りを続け、消耗し、いつしか実家の家族としゃべることができなくなっていました。実家の建物に入るだけで心臓は鼓動を早め、指先は冷たくなり、手に汗をかくようにりました。祖父から電話がかかってくるだけで、逃げ出したくなるようになりました。
 
 それに加えて、地元からのプレッシャーに居心地のわるさを感じるようになりました。実家に顔を出すようになったことで、実家のある地域のことにいろいろと勧誘されるようになってきたのです。今ではどこの田舎も似たような感じかもしれませんが、若手不足というのが背景にあったのだと思います。ただ、別な記事にも書いたとおり、就農した時点ですでに実家と異なる地域に住んでいたこともあって、あっき〜は通い農家として柿の栽培に携わっています。
 
 妻と子どもたちと暮らす地域のこともあるのに、住んでいない地元のことまではできない。そんな判断から、「地元のことは柿農家という立場に関することなら検討する」という結論を出しました。地元のことを担ってくれている人たちの中には日頃お世話になっている農家さんたちもいます。申し訳なさ、心苦しさもありましたが、1つを引き受けたことで次から次へとキリがなくなることが恐ろしく思えました。
 
 そして何より、当時まだ乳児も含まれていた四姉妹を、一生懸命に育ててくれていた妻との分担体制が崩れてしまうことが怖かったです。子どもが四人というのは自分たち夫婦で決めたことだったので、自分勝手な印象をもたれる方もいると思います。それでも、時には精神的に不安定になりながらも子育てをがんばっている妻に、これ以上の負担はかけたくありませんでした。

完璧にはできない

 地元からの勧誘に関しては、お詫びして断ることが続きます。そんなぼくの態度に対して、「地域の伝統が絶えてしまうぞ! どうするんだ!!」と威圧的に非難される場面も出てくるようになりました。
 
 今でこそハッキリと断れるようになりましたが、もともと人の頼みを断るというのがとても苦手な性格です。頼んでいるほうも必死なのだということを察してしまうので、気持ちは落ち込み、とても辛い感情を抱きながら、なんとか引き受ける方法はないのかと探してしまいます。「ぼくだって平然と断っているわけじゃない」……そんな言葉を飲み込んでいました。
 
 この頃には、ぼくもかなり不安定になっていました。完璧を、最善を目指すのなら、地元のことも精一杯がんばるべきなのではないのか。まだなんとか実家とも向き合うべきではないのか。それができないのは、甘えなのではないか。今思えば、誰もそこまで強いてはいなかったのかもしれません。しかし、いつの間にか逃げ場を失い、勝手にどんどん追い込まれていきました。

家庭が崩れていく音

 そして、そうなってきて最も辛かったのは、妻との諍いが増えていたことでした。これは完全に自分目線での言い分になってしまいますが、実家の家族のこと、地元のこと、それ以外のいろいろなことで消耗して、もうボロボロになっていました。立ち上がる気力が湧いてこない……もう何もしたくない。
 
 そんな中で、妻の言動がぼくにはおかまいなしのように見えてしまっていました。妻は妻で一杯一杯だったはずなのに。限界だったのは自分だけでは なかったはずなのに。
 
 妻や子どもたちと笑って幸せになるために生きていると思っていたはずだったのに、妻と言い争い、子どもたちに怒りをぶつけてしまう。感情をコントロールできず振り回される時間が増え、そうした自分に自己嫌悪し、完璧でない自分が心底イヤになりました。
 
 そんなある日、また些細なことですれ違ってしまい、妻とケンカになりました。自分の言葉は誰にも届かない。絶えきれなくなって、衝動的に真冬の屋外へ飛び出していました。

冬の海辺

 寒風が吹き荒ぶ中を、ただひたすらに歩いていました。どこか確信めいた気持ちで、海へと向かっていました。もう終わりでもいいのかもしれない。そんな気持ちに心を支配されていました。
 
 歩き続けて、海岸に着きました。冬の夜の砂浜。風が吹き荒れる日本海の波打ち際。どんどん海が近づいて、脳内にはそのまま波に飲み込まれていくイメージが浮かんで……でも、砂から先へは、水の中へは進めませんでした。子どもたちの顔が頭に浮かびました。あの子たちの成長を見ていたいと思いました。妻と笑い合っていたいと思いました。
 
 暗い砂浜でしばらくしゃがみ込んでいました。波と風の音、少し遠くから車が走る音が聞こえてきます。帰ろう。海に背を向け、トボトボと家に向かって歩き出しました。帰り道では、結局そんな覚悟もなかったくせに、苦しまずに終わらせられる方法をスマホで調べたりしていました。可哀想ごっこをしている自分の愚かさ、甘さ、我が身かわいさに嫌悪感が湧いてきますが、それがそのときの自分でした。

完璧主義からの脱却

 それから数年が過ぎていきます。
 
 少しずつ、本当に少しずつ心を救える方法を探しながら、いろいろと試していきました。本を読み、人にふれ、自分の観点や捉え方を変えていく。そして、結果として完璧主義を、「完璧でないことを悪とする主義」をやめました。
 

 家族だから常に仲よく団欒でいないといけないという幻想をやめました。
 
 苦手な人からは距離をとり、無理につき合い続けることをやめました。
 
 やりたくもないことを、無条件になんでも引き受けようとするのをやめました。
 
 
 完璧にそろえていこうとしなくても、大切なものは最初からもっている。そう信じてみることにしました。
 
 よりよい方向を目指したっていい。でも、目指したけど達成できなかったときは、そんな自分も穏やかに受け容れる。達成できなかったからといって、自分を責めない。否定しない。それでもまだ目指したいときには、次どうしたらよいかを自分なりに考えて またやってみる。
 
 そして、自分の理想を、自分の考える最善を無意識に他人へ押し付けるという傲慢をやめることを、これまで以上に強く意識するようになりました。
 
 「こうあるべきだ」に固執せず、自分が楽しいこと、ほしいこと、やりたいことを、(独りで生きているわけではないことは忘れず)素直に目指す。その結果が最善であることに固執し過ぎない。ユルやかに目指すというか、肩の力を抜いて向き合えることが増えました。いろいろなことに、前より寛容になっていけました。

ユルやかに目指す

 結果として、いまの自分は、いまのほうが幸せだなと感じています。
 
 生産性という観点から見たら、バリバリ自己ベストの最善手を求めていた以前のほうが優秀だったと思います。それでも、この生き方のほうが気に入っているし、ロスも出るようになったけどエネルギーの総量はいまのほうが大きいような気もしています。シンプルに救われたという実感があります。
 
 目指すことはやめない。でも、必ず最もゴールに近いところまで到達するべきだという鎖には縛られない。自分で自分をがんじがらめにして、勝手に苦しまない。挙句、周りに救済を押し付けない。そもそもの話として、思っているゴール(完璧な姿や理想像)を絶対視はしないようにする。時にはゴール自体を見つめ直してみる。
 
 この考え方も、もしかしたら数年後には変わっているかもしれません。それでいいのだと思います。唯一絶対の完璧なんてものは、おそらく存在しないのだから。
 
 また、ぼくは完璧主義を否定する気もまったくなくて、この文章もそのためのものではありません。完璧が求められる生き方を選び、その中で走り続ける尊敬できる人はたくさんいます。人それぞれが自分で選んだらいいし、選ぶしかないし、それでいいのだと思います。

ようやくここまで

 あの日。負の感情の洪水に飲み込まれながら、暗い海を眺めた冬の日。
 
 あのときの自分は、たぶん1つの限界を迎えていました。でも、おそらく終わらせる判断が上回ったのはごくごく短い時間だけで、それ以外はどうやったら生きられるのかを探して もがいていたような気がしています。
 
 今でもかつての完璧主義が顔を出してくることはフツーにあるし、しんどくなって塞ぎ込んでしまう日だってあリます。でも、あのとき終わらせなくて本当によかったと、心から思えるような人生にしていきたい。
 
 笑っていたい。楽しんでいたい。そして、楽しむ姿で誰かを笑顔にもしたい。
 
 それを目指します。せっかく生まれてくることができて、いま生きているのだから。
 
 結果として笑えなかったとしても、ぜんぜんダメダメだったとしても、人に批判されたとしても。いろんな考え方を知りながら、自分なりの、自分にできる精一杯で生きていこう。完璧でも最善でもない、この不完全な自分で。
 
 それでいい。
 
 それがいい。
 

 以上が、ぼくが完璧主義をやめるに至った大きなできごとの1つです。もちろん、ここに書かれていない様々なことが複雑に絡み合った結果だとは思うのですが、今のぼくはそれを選んでいます。本当に深夜の手紙というか、自己陶酔すぎる文章になってしまったので、あまり読み返すことはせずに公開してしまおうと思います。じっくり読み返してしまったら、記事自体を削除しかねないと思うので笑。
 
 どこまで伝えられたか心許ないですが、この拙い文章が、少しでも誰かのお役に立てたら うれしいです。また、このエピソードをこうして過去のできごととして書こうと思えたこと自体が、ぼくにとっても何か大きいことなのかもしれません。そんな自己満足な文章におつき合いをいただき、心から感謝いたします。

 楽しいことが好きな人間です。変に大人ぶることなく、全力で楽しいことをやっていきます。そんな自分の活動が、誰かの何かのプラスやきっかけになったら、こんなにうれしいことはないなって思います。
 そんな自分が紡いでみたnote、よかったらぜひおつき合いください。

 お読みいただき、本当にありがとうございました♪

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