見出し画像

その道のプロにきいてみた〜浮世絵の“本物”って何?〜

大阪の心斎橋にある「大阪浮世絵美術館」に行ってきた。

商店街の一角に建つ小さなビルの3階。決して広くはないフロアは、端から端まで浮世絵だらけ。好きな人にはたまらない空間だ。

いまは歌川広重の企画展をやっていた。展示されてある浮世絵はみんな「本物」というだけあって、近くで見ると相当な見応えがあった。広重の作品は背景の群衆の表情が豊かに、ときに滑稽に描かれてある。いわゆる「モブキャラ」にも見所が隠されてあるなんて、まるで『ワンピース』みたいだ。

有名な『神奈川沖浪裏」もあった。「浪裏がいつでも見られる美術館」とホームページには書かれてあったが、同じ日に訪れた中之島の香雪美術館で開催中の『北斎と広重』展には、『浪裏』の展示はなかった(終わっていた)ので、その意義はとてもとても大きい。

やっぱり本物はすごかった。何がすごかったとうまく言葉にはできないけれど、とにかくすごかった。映画『ゴジラ−1.0』の映像に勝るとも劣らない迫力。そういっても過言ではない、それはもはや“映像”だった。次の瞬間、目の前で砕ける大波の迫力に恐怖すら感じる画だった。

展示室内のテレビで流れていた解説動画によると、葛飾北斎の描く線は細く鋭く直線的である一方で、歌川広重の線は柔らかく優しい線である。北斎の絵はもちろん好きだが、昔から広重の作品、とりわけ『東海道五拾三次』の一連の作品に魅力を感じてきた私には、私にとってのその魅力の理由が解き明かされたような気がした。一本としてまっすぐな線がない絵。そこに作家のリアルな息遣いを感じることができる。柔らかいタッチの作風からは、江戸の人々のリアルな「暮らし」を想像することができるのだ。

ところで、気になったことがある。浮世絵の“本物”って、いったい何?

浮世絵は木製の原版を使った大量生産の可能な「木版画」が有名だ。もともと一枚一枚は廉価な代物だった。葛飾北斎の活躍した時代、浮世絵はだいたい蕎麦一杯と同じくらいの値段で手に入った。現在の価値でいうと1000円を上回らないくらいだ。浮世絵ら庶民、大衆が手に取りやすいエンターテイメントだったのである。一点物の美術品とはわけが違う。絵師が描いた「原画」ならわかるけど……浮世絵の“本物”とは。

気になったら解決しないではいられない私は、さっそく学芸員の方にその疑問をぶつけてみた。

すると学芸員さんは懇切丁寧に(🙇‍♂️)、時間をかけて(🙇‍♂️🙇‍♂️)、しかも二人がかりで(🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️)教えてくださった。(ありがとうございました😭)

いわく、“本物”とよばれる浮世絵とは、絵師が描いた直後に制作されたもの、すなわち“初摺り”、あるいはそれに近いものである。それがなぜ重要かというと、絵の色使いに絵師自身の意向が反映されているためだ。初摺りは絵師が直接色を指定し、作品の仕上がりのチェックもしたらしい。

原画が描かれ、それが版を重ね、さまざまな版元(いまでいう出版社だ)で刷られるようになると、色使いが異なってくる。絵師の意向とは異なる色使いの絵に変わっていく場合もあるのである。

また、作品を刷るごとに原版が擦り減ってくる。つまり、絵は初摺りに近ければ近いほど、色や線が鮮明なのだ。だからコレクターは製造年の古い浮世絵に価値を見いだすらしい。なるほど。

浮世絵といえば、葛飾北斎や歌川広重など、有名な絵師の名前がフィーチャーされがちだ。しかし、学芸員さんはおっしゃった。「浮世絵は総合芸術なんです」と。ショップで売られていた浮世絵のオリジナル版(=本物、“復刻版”ではないもの)を手に取り、その美人画を私に見せてくださりながら、絵の女性の髪の生え際のところを示して、描いた人もすごいけれど、それを掘った人がいること、それを掘った道具を作った職人さんがいること、そのすべてを含めた江戸の技術力の高さを強調された。たしかにあのような繊細な絵を、ペンで描いたならまだわかるとしても、木に小刀で掘ったというのはにわかは信じ難いことだと思う。

ショップに並んだ浮世絵の“本物”を見わたしてみると、それらは日本文化の粋の詰まった芸術作品でありながら、「高くてとても手を出せない」ほどの高額では売られていない。それはむしろ驚くべきことだろう。

帰り際、もう一度、広重の描いた大衆の表情や、『浪裏』のさざ波の一つひとつを見返してみた。その“繊細微妙”は間違いなく日本が世界に誇る文化だと思う。

学芸員の方、ありがとうございました。浮世絵がまたあらためて好きになりました。

『浪裏』、これはレプリカです。

(終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?