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【エッセイ】 『感性豊かな日本人は「自然」を知らなかった』

 昨年の八月、noteにて『源さんと蛍』という掌編を発表した。蛍の放つ光や田舎の夜の「闇」のもつ幻想性に私なりの想いを馳せた作品だ。私は香川県の東側——讃岐の東なので「東讃」とよばれている——の、田畑と緑が繁茂する風景のなかで育った。だから、私にとって、自然の営みに授かる感受は、自分の文学の根幹といってもいいくらいだ。

 まっくら闇のなかに漂う蛍の灯は、日本人の情緒そのもののように儚く、美しい。清少納言は《夏は夜……》と著したが、春夏秋冬、昼夜に限らず、古来からの私たちの暮らしの細部は、ありとあらゆる自然の美しさに彩られてきた。

 日本にそれぞれ異なる彩りを伴った四季があること、そして日本人の祖先が仏教の無常観に出会い、感銘を受けたこと。そのふたつの〈偶然〉は、伝統的な日本人の精神生活に「もののあわれ」なる観念として結実し、数多の優れた創作を支えてきた。

 そんな、山川草木に対する深い慈しみの感情は、日本人特有のものなのであろうか。

 興味深い一つの事実を挙げるならば、伝統的な日本の言葉——ヤマト言葉——に、英語のnature、すなわち「自然」を意味する言葉が存在しない(見つからない)ということがある。ヨーロッパ語のnatureをそのまま概念として取り入れ、その訳語として明治時代につくられた日本語が、「自然」である。

「人間以外のもの」という意味の「自然」という言葉、あるいは概念は、これほどまでに自然を愛でてきたはずの日本人によって、それまでに一度も〈発見〉、そして〈命名〉されなかったのである。

 この理由を、日本語学者の大野晋はこのように考察する。

古来の日本人が、「自然」を人間に対立する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろう……(略)……自然は人間がそこに溶け込むところである。自分と自然との間に、はっきりした境が無く、人間はいつの間にか自然の中から出て来て、いつの間にか自然の中へ帰って行く。そういうもの、それが「自然」だと思っているのではなかろうか。》

 言い換えるならば、日本人にとっての自然とは、私から離れて「そこにある」ものではなく、「私そのもの」なのだ。自然が「私そのもの」であるならば、自分自身を認識するようにして自然を認識し、沸き起こる思いを花鳥風月に捉えて詠うということにも無理はない。日本人的感性とそれによる創作物が、西洋のものに対して異質であるならば、「神の創造物」としての人間と、それに「治められるもの」としての自然という認識が、日本人にはまったく根付いていなかったということに尽きるのである。

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 蛍ひとつとってみても、そこに〝詩情が宿る〟のは、日本人特有の感覚のようだ。日本では『万葉集』のなかに蛍の姿が、詩的光景の中心を成すものとして描かれているのに対して、英語や仏語に蛍という単語が現れるのは十七世紀以降、つまり日本より千年も後のことなのである。

 しかも、『万葉集』には、宮廷の歌人の作品ばかりでなく、「防人の歌」などのように、名もない庶民の歌が数多く収録されている。それは、特別な教養や技巧が優れた歌を生みだしたのではなく、一般的な日本人の感性がきわめて鋭く、また豊かであったという事実を証明しているといえるだろう。

 小泉八雲=ラフカディオ・ハーンは、そういった日本人の庶民の感性を、「西洋では稀にみる詩人だけにみられる感性」とまで讃え、感嘆した。

 そんな、民族としての誇るべき感性を有する国民として、いま憂慮すべきことがあるとすれば、過剰なまでの「海外(殊にアメリカ)のモノマネ」が、現代日本のあらゆる文化圏を席巻してしまっているという実情ではないだろうか。「情緒」を否定し、駆逐するような勢いで、「合理性」や「論理」が幅を利かせてゆく。

 古今東西の文化的影響の上に、こんにちの日本の文化があるということは充分に理解できる。けれどそれは、海外発信のなにもかもをかつての日本人が無批判に受け入れた結果と捉えるべきではない。「自然」という概念を長い間もたなかった日本人特有の精神性と、「もののあわれ」と呼ばれるような柔らかな情緒が、すべての日本人の内面にしっかりと根付いていた、そのことが前提にあったということを忘れてはならないはずだ。

「自然」という概念を知らなかった頃の日本人の無垢な感性を取り戻す勇気——それはグローバリズムの波に抗う勇気ともいえるだろう——の担い手として、これからの日本文学は書かれるべきだと私は思う。その勇気を植え付けるようにして丹念に書き込まれた言葉の一つひとつは、理屈を超えた「もののあわれ」として、現代の人びとの心に訴えかけると期待をこめて。

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 お盆に帰省しても、香川の地で、私の生まれ育った土地の近くで、蛍を見られる機会はめったになくなってしまった。蛍は、文学におけるメタファーとしても、もはや機能しなくなってしまうのではないかと寂しく思う。

 いまこそ、「私そのもの」に語りかけるようにして紡がれる、〝無垢な文学の言葉〟が求められている気がする。

〈終わり〉

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