『奇妙な夢―夏の朝―』【短編小説】
じぶんらしく、ってなんだよ。わたしは例の奇妙な塊が胸の奥につっかえた感覚のまま、きょうも朝を迎えた。
その塊は、いつもわたしの躰の芯に近いところにあって、いやな微熱を発している。輪郭のはっきりしない薄い雲のような焦燥が、わたしの小さな胸のなかで一日中うずまいている。吸い込んだ空気が喉の奥で濁ってゆくような、たとえるならそんな気分の悪さをわたしは一日中かかえて過ごしている。
そしてわたしはときどき、なんの前触れもなく、恐ろしい虚無感の発作におそわれる。
そんなときわたしは、できるだけ人に見られないようにして、涙を流す。その奇妙な塊が涙といっしょに溶解して、流れ出てはくれないかと、なかば祈るように、たくさんたくさん泣く。
ところがその塊は、わたしが泣き止むと、いつの間にかまたいやな微熱を取り戻して、やはりわたしの小さな胸の奥、レントゲン写真でも確認できないくらいにほんとうにずっと奥で、狐狸の輩のように悪い顔をして、静かに眠りはじめる。
こんなときわたしは、それこそ「ほんとうの虚無感」に襲われて、絶望的に泣きたくなる。
この頃、わたしは、とてもおそろしい予感や暗示のようなものを感じるようになった。
そしてそれは多くの場合、夢の中の出来事としてわたしを待っている。
今朝はこんな夢を見た。
近代的な都市のビルディングの、最上階にわたしはいる。
窓からは、青い空にのっそりと浮かぶ夏の雲が往くあてもなく流れてゆくのが見える。
部屋には冷房が効いている。不快なくらいに効いている。わたしは本能的に、ここから逃げ出したいと思っている。でもどうやらそれはできないらしい。
わたしの背後の、わたしの背丈の二倍くらいある大きなドアには鍵がかかっていて、わたしはそれを内側から開けることができない。どうしてか、夢の中でわたしはそれを知っている。そしてその状況を震えるくらい悲観している。
前方には、そのドアよりももっとずっと大きい窓が一つだけあって、そこには雲が悠々と流れる。空は清々しいほど青い。けれどわたしはとても不快なのだ。
その決定的な理由が、窓とわたしとのあいだに、スーツ姿の男たちが、戦車みたいに大きなクッションのついた椅子に深々と座っていて、彼らがわたしを品定めでもするかのように見上げていることだ。
そのなかには、ひげを生やしている者や、天上に届くくらいに大きい蛸みたいな帽子を被っている者がいる。真冬の砂漠の太陽のような見事な禿げ頭の男もいる。彼らのそれぞれの見た目はまったく違っているが、みんな大人の男で、その目つきには生きている人間という感じがしない。
心のかよう人の目ではないと、わたしはその男たち全員に対して、直感的に思う。そして戦慄する。
ところがわたしは、小刻みに震えながら、そこを動くことができない。
男たちの前で、見られる者としての羞恥と絶望と悲しみを同時に感じながら、わたしは身動きができない。
正面の男の一人が口をひらく。
「きみには個性がないな」
するとそれに呼応するように、次々と、
「きみは女らしくない」
「きみには人として弱そうな印象を受ける」
「服装も地味だ」
「きみはおそらく、変なペットを飼っていて、それに話しかけながら、夜中に缶ビールを飲んでストレスを発散するタイプの、おかしな奴だ」
「つまるところ“ありきたりな女”だな」
「それでいて強みがない」
「じぶんらしく、生きようとはおもわないの」
わたしは本当に追いつめられる。言葉が出ない。逃げることも出来ない。くやしい。――と、そこで、躰中の汗と止めどない涙が窓のむこうの夏の空に血のように吹き出る、それはまるで意識が反転するような、快楽も苦痛もこえた劇的な一瞬をわたしは迎える。――
朝だ。
いやな夢は終わっていた。
じぶんらしく、ってなんだよ。個性、ってなんだよ。ありきたり、って。
奇妙な塊は胸の奥にある。いやな微熱を発して、夢の余韻に浸ってうっすらと汚濁している。
夢はわたしの意識の中枢から派生する、なにかの予感であり、暗示なのであろうか。そう思うと情けない。泣きたくなる。朝日がカーテン越しに夏の朝を知らせていた。生あたたかい光が六畳間にあふれている。
重い上半身をベッドの外へ投げ出すと、開けていた窓から涼しい風が吹いた。けれど夏はまだはじまったばかりだ。
洗面所にたったとき、じぶんらしく、という悪魔のささやきがまた聞こえた気がして、わたしは鏡に写るわたしが、とつぜん、恐ろしい生きものに見えてきた。〈終わり〉
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