「街とその不確かな壁」と壁の記憶
村上春樹の新作「街とその不確かな壁」は、純粋なフィクションだが、同時にコロナ禍の出来事を思い起こさせてくれる記念碑的な作品である。その一つが、東京にあった壁の記憶である。
やみくろの巣の上に壁が現れ、消えた
国立競技場のある一帯は、村上春樹が作家になる前から経営していたジャズバー、ピーターキャットのすぐ近くであり、「街とその不確かな壁」の従兄弟作品ともいえるハードボイルド・ワンダーランドの計算士が奔走した地域でもある。
そこに壁ができた。しかしながら当時その先には希望があった。
紆余曲折を経た工事が終わり、2019年11月30日に競技場は完成し、壁は取り払われ、翌月21日にはオープニングイベントが行われた。その10日後に武漢で新型コロナが発生が報告され、全世界の人々の生命や生活が大きく影響を受けることになるとは、参加した5万人あまりの誰一人として予見していなかった。
壁がふたたび現れた
そして、競技場はまたもや壁に囲まれた。
疫病を防ぐための壁
五輪が近づくにつれ、警備は厳しくなり、壁だけではなく金網も張られるようになった。待ち望んでいた五輪がこういった形で進行するのは耐え難かったが、静かに五輪の無事を祈った。その20か月後に発売された「街とその不確かな壁」の一節は、当時の気持ちを思い起こさせた。
そう「疫病を防ぐための壁」だったのだ。
楽しみにしていた五輪が、開催されているにも関わらず、近づくことができない、この奇妙な状況において、当時思い出したのは大昔に見た風景だった。それは冷戦下のベルリンの壁だった。
2021年の東京にあった壁は、昔ベルリンにあった壁と似ていた。壁を抜ける検問所の様子もそっくりだった。
きっちり守られた壁は、選手や関係者だけが超えることができた。祈る思いで五輪が無事終わることを願ったが、そのために壁の外側からできることは何もなかった。
一角獣と単角獣と長い影
五輪前後は一角獣/単角獣の彫像がある絵画館周辺も壁で覆われた。そう、一角獣/単角獣は壁の中にいたのだ。
村上春樹が「世界の終りとハードボイルド•ワンダーランド」で、内面世界を表象する壁のある世界を描いた「世界の終り」と対照させる意味合いを持つ「ハードボイルド・ワンダーランド」の舞台として、国立競技場や絵画館周辺を選択したのは、単に当時馴染みのあった地域だったからだと思う。
しかしながら、その数十年後、あろうことか「ハードボイルド・ワンダーランド」の舞台となった地域に「疫病を防ぐための壁」が建設され、1985年の作品世界に於ける内面と外面が反転し、現実と融合してしまった。これはマジカルリアリズムという言葉で括るのも憚られるような、38年かけた伏線回収である。
その意味で「世界の終り」の原型である1980年の「街と、その不確かな壁」の作品世界に決着をつけて、「壁の世界」が再び描かれる事には必然性があり、それは書かれなくてはならない物語だった。
第五波収束とともに、2021年11月頃に壁は撤去され、国立競技場に近づけるようになった。その時には世紀の祭典は既に過去の出来事だった。
「街とその不確かな壁」の中での影と主人公の会話は、人との接触が限られていた時代に、壁が撤去された国立競技場の前で見た長い影を思い起こさせてくれた。影は人と離れている時に、最も長く見える。というか、誰かと一緒にいる際に自分の影の長さを気に留める人は殆どいない。
1980年の未刊行作「街と、その不確かな壁」や1985年の「世界の終りとハードボイルド•ワンダーランド」発表時は自己の内面洞察のようにとらえられていた「自らの影との対話」が、はからずも予言的な意味合いを持っていた事がわかったのが2020年だった。
後世の人には理解できないと思うが、無症状でも高い感染性を持つウイルスに、自らが感染しており、他人に感染させてしまう可能性、他人が感染しており、自らが感染してしまう可能性、それらは人との対面接触を断つことでしかリスクをゼロにできなかった。
そしてその論理的帰結は、他人を思いやる多くの人々を苦しめる事になった。特に人間関係形成期にあった若い人達を。当時は、大学に入学して新たに友人を作り始めるまさにその時に、人と対面接触する機会を奪われ、狭いアパートの一室に閉じ込められる事になった若者が沢山いた。
昔は奇異にみえた「壁の中の世界」や「自らの影と話し込む光景」や「枯れた古井戸の底に籠る事」は、予想外の展開で2020年に現実となった。その意味で2023年発売の「街とその不確かな壁」で、それらを再録する事は、同時代の文学者としての村上春樹にとって必然であり責務であった。それが老作家による古い素材の使い回しに見えたとしても。
門衛の記憶
東京五輪の公式記録映画は翌2022年の6月からSIDE AとBの二部構成で公開された。上映当時の映画館には通常の映画とは違う光景があった。
映画の予告編が終わる頃に係員がスクリーンの脇に立ち、観客のほうを見ていたのだ。恐らく五輪反対派がスクリーンに突撃するなどの暴挙に出るのを防ぐためだったと思われるが、映画が始まってしばらくするまで、係員はスクリーンに背を向けて観客席をじっと見つめていた。
すっかり忘れていた映画館での光景を思い出したのは「街とその不確かな壁」の一節を読んだ時だった。
同時にそれは、壁に囲われていた国立競技場を、遠くから中の様子を覗き込んだ際に見た光景をフラッシュバックさせた。
パンデミック当時、感染防止の為の最善の行動は「何もしない事」になり、多くの人々は目の前の状況に翻弄され無力感を味わうと同時に、ネット上では暇に任せて「空を見上げた」果てしない議論が横行していた。
けれども当時、社会の根底を支えていたのはエッセンシャルワーカーと呼ばれた人々だった。感染の脅威に晒されながら、忙しく働いていた彼ら彼女らの思いの多くは言語化されず、もしくはされてもネットの海に沈み、残されることはなかった。
2023年に、この一節を読んだ際、自らの身体を張って第一線に立っていた人々の心の声を聞いた気分になったのだった。
昇華された共通体験
2023年5月の時点で、コロナ禍についての記憶は驚くほど急速に曖昧になりつつある。不幸を忘れたいという気持ち、科学的知見、猜疑心や陰謀論、個人的な思いや諦念があいまって、適切な言葉を見つけ出すことが難しくなっている。
多くの人がコロナに感染して、亡くなったり悪夢のような高熱に苦しんだことは、人類としての共通体験であるが、数十年後「街とその不確かな壁」がコロナ禍を知らない世代にどういった印象を与えるのかはわからない。
この作品に描かれた壁が、未来永劫フィクションであり続け、二度とコロナ禍のようなことが起きないことを祈るとともに、コロナ禍を文学的に昇華させて、記録に残してくれた村上春樹に、同時代の読者として感謝したいと思う。
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