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水星の魔女の新しさをジェンダー観点で語る微妙さ

水星の魔女は新しい。令和のガンダムだ。

というお話はそこかしこで聞く言説ですが、女性主人公だから新しい。ヒロインも女性で百合カップリングが新しい。学園ガンダムが新しい。といった要素と合わせてのお話となっていますが、舞台装置としての新しさであって、ガンダムとしては初代から一貫している点は変わっていないと思います。

ジェンダー的な文脈で称賛したり逆に批判したりという動きが微妙に思えてならなかったことと、今更見た最終回が好きな終わり方でホッとしたのでnoteにしたためようと思っての2年ぶり投稿です。

ガンダムは自立した女性を描いてきた

ジェンダーというテーマがその濃淡は別として様々に語られるなかで、水星の魔女もその文脈に乗せられてしまって評価している人たちがいる・・・感が否めません。

ジェンダー論の専門家でもないので色々突っ込まれそうな覚悟ですが、仮に性に基づく「らしさ」の規範に縛れる描写を良しとしないのであれば、ガンダムはそのような表現を取らなかった作品群であると思います。

自立した女性像は初代から描かれ続けていたガンダムの骨格の一つですし、富野監督は「男はこうだ」「女はこうだ」ということを様々なインタビューで言いがちで一見して昭和の家父長制的価値観と思われがちですが、アニメーションという文脈でここまで女性の意思を描いてきた先駆者は他にいないのではないでしょうか(といって宮崎駿の姿が浮かぶ)

かねてより、宇宙世紀ではセイラ、ベルトーチカ、ミネバ、ハマーンなど、とにかく強い女性が多かった。自ら武器を取って戦うという姿です。それでも女性的な情を描いたり、愛におぼれてしまうところや、戦争のリアリティと人間的心理を描いたりはしてきました。こと、宇宙世紀は、富野ガンダムは、女性がカッコいい。これはファンであれば誰しもが納得できることでしょう。

平成ガンダムでも、ディアナ様しかり、とにかく自立して戦う女性が多いことは顕著で、ガンダムのアイデンティティの一つであり、これを時代的文脈からジェンダー配慮で素晴らしいとか、逆にポリコレに迎合したとこき下ろすことはナンセンスではないでしょうか。

本作は現代的に、自分の足で立つ女性の姿を描くことで、初めてガンダムに触れる人に分かりやすく、意識的に描いていたことは新しいとも言えるかもしれませんが、同時にガンダムらしさというものとしては前述の通り受け継がれてきたコンセプトでしたので、水星の魔女をガンダムであると認識できたのだと思います。という意味ではいつものガンダムで、私は水星の魔女見ながら「え!なにこれガンダムじゃん!」とキャッキャしながら叫んでました。

ジェンダー云々よりも親と子(個)の関係

1クール目より、学園ガンダムという、ガンダムに触れたことのない世代にとって触れやすい題目でスタートした姿は、どちらかというとビジネスサイドからの要望として脚本家宛に出された話のように思いました。SFは売れにくいと言われて久しいアニメですので、ただでさえ「戦争」を題材として「人の相互理解」に力点を置く難しい話というのは今のインスタントで表面的でコスパやタイパ消費がマスとなる若者向けには難しい。よって、ガンダムのハードルになっていた要素を一度取り除くことがスタートだったのでしょう。

その上で成り立ってきた百合消費ですが、これはもう前述の通り、自立した女性はガンダムの骨格であり、それを分かりやすく調整した妙技が脚本家の力であったように思います。

ガンダムらしさでいえば親子。ガンダム伝統芸能の一つである「親殺し」をはじめとして、親から子への引き継ぎというところがテーマの一つだったのでしょう。1クール目は父親世代たちの表立った動きに対して翻弄、あるいは企みをする子供世代たち。グエルパパの件なども含めて、1クール目最終回でミオリネパパなどと共に一度退場させて子供たちの話にバトンタッチしていったのが2クール目でした。

また、もう一つのらしさでもある親を越えていく子供という観点については、2クール目の中心テーマとして描かれていたものであり、シャディク、グエル、ミオリネ、スレッタがそれぞれの観点で親を越えていく姿が描かれました。越えていくというよりは自立していくが正確な言い回しでしょう。

そのように、ジェンダーテーマとして分かりやすいものをぶら下げつつも、構造的にはガンダムの流れをいつも通り。ここでいうガンダムの流れはイデオロギーの殴り合い宇宙(そら)で、いつも通りのアレです。

最初は話し合いでなんとかしようとするけど結局イデオロギーと文化と自分の中の宗教が違うんで会話してるようでしておらず、戦争するしかなくなって、最後はモビルスーツに乗りながら宇宙空間で機体がぶっ壊れるまで殴り合って謎のテレパシーで分かり合いそうでやっぱり分かり合わずにぶっ殺すアレです。

私はガンダムの大好きな部分は、人類史を教訓(?)として、結局話し合いじゃなくて武力でわからせたら文化的強者に立てるじゃんってなるところなんで、いつものこれでいくのかと思った最終回の流れ。ようやく新しいものが見れたと思いました。

みんなから個の時代へ

シリーズファンならクスっとくるようなネタをところどころに置いてきた水星。Wのカトルポーズとか、Vガンフラグで危ぶまれたシャディク隊とか、78番ハンガーとか、唐突に始まったフェンシング対決とか。そのなかで最後のオチはどう考えても無印のラストシーンのオマージュ。

ここのシーンの描き方がアムロ・レイとスレッタ・マーキュリーでの明確な違いとして非常に新鮮でした。このポイントだけ明確に新しい世代に向けてガンダムを踏襲しなかったポイントだったと思います。

アムロ・レイはア・バオア・クーから脱出したなか、コアファイターから見つけたホワイトベースクルーたちの脱出艇の光を見つけて
「まだ僕には帰れるところがあるんだ。こんなに嬉しいことはない」
と涙を流して彼らに合流するというエンディングを描いたのが無印でした。

しかし、今回は主人公であるスレッタがさまよう側となり、それを見つけるのはヒロインであるミオリネという構図をとりました。そのキーアイテムはスレッタのプレゼントだったわけですが、他にも学園の友人たちがいるなかで、スレッタとミオリネの関係のみで最後の再会を描きました。

「同じクルー(共同体)の仲間たちとの関係性」という観点から「1対1の大切な誰かに対する関係性」を大切にしたいという点で昭和と令和の時代の差を感じずにはいられません。

最終決戦も、通常のガンダムであれば巨大なモビルアーマー等と激突するケースが多いのですが、今回はコロニーレーザーもどきから守るという構図となり、特定のなにかを打倒するという描写ではありませんでした。(まあUCでも本物のコロニーレーザーから守ってましたけど、その前にネオジオングとがっつりやってるんで)

クレヨンしんちゃんのオトナ帝国でも、悪役を打倒するのではなく、しんちゃんが塔をひたすらに走り登り、家族と自分たちの生きる未来を守るという演出が極めて心を打つシーンでしたが、今回の水星の魔女も、なにかを倒す物語ではなく、大切な個人を守る物語という落とし込み方となっており、これは今までのガンダムにはなかった終わり方であり非常に新鮮でした。

明確に個の時代を意識させながら、親が何を積み上げてきたか。親の積み上げたものを子供はどう捉えるべきか。それでいても子が大切にするのが個であれば、それを肯定するという筋書きで、今の世代たちへのメッセージとしたのでしょうか。

戦争のようなダイナミズムが背景にありそうで、実際には企業間の小競り合いというミクロな話となった水星の魔女は、ジェンダーであることでも、ポリコレであることでもなく、個、それぞれのあり方とそれぞれの大切な人を守ることへの肯定という意味で、人間讃歌でありつつも個人主義的な作風になった。それがいまの個性や私らしさを大切にしたいと思う若者向けにも刺さったポイントだったように思えます。

ウクライナで本物の侵略戦争が始まってしまったなかで、このメッセージは空虚なものにも感じてしまったのも事実です。一方で、個の自由と、個が個を愛して、彼女たちの世界だけで閉じる瞬間も美しいじゃない、幸せじゃない、と思える自分とで、エンタメとしての綺麗な世界に思わず涙があふれた良き最終回だったと思います。

まあ、ジェンダーとか難しいこと言ってないで黙って出された百合(個による不可侵の愛)を食え!!!

それ食べること自体がこの作品の味わい方と思ったり。
制作スタッフの皆さまお疲れ様でした!

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