見出し画像

ゼロ年代アニメとの決別!シン・エヴァのラストシーンの意味

なぜラストシーンは”あのキャラ”だったのか? というお話。

カオスに染まったQから8年かけて、TVシリーズから四半世紀をかけて、ついにエヴァンゲリオンが終わった。

Qまでの伏線を全部回収できるのか?
旧劇みたいなとんでもないオチにならないか?
そもそも本当に完成しているか?

などという心配しかなかった本作ですが、ここまでとっ散らかったものを絶妙なストーリー構成と演出により、見事にまとめちゃいました。うそやん

そして、前評判で散々ループものだと考察されてきたところを、ゼロ年代、もっといえば平成のアニメの構造から踏み出した作り方で、見事に新世紀のアニメとしてケリをつけたと思います。

さて、興奮冷めやらぬ、という状況で綴らせていただく本noteでは、作品の設定考察・・・とかではなく、シン・エヴァが、庵野秀明が、何に対してケジメをつけて、何を踏み出したのかという観点から、ゼロ年代に型を作った平成アニメと比較して綴るものです。ところどころ他作品のネタバレを含みますので、「まどかマギカ」など代表的なアニメにはご注意ください。

ゼロ年代を構成する「やり直し」への欲求

何が流行るかというところから、時代の空気感を逆算で考える記事をみかけることがあります。

たとえば、東日本大震災といった、日常に突然現れる脅威というところから、「進撃の巨人」が流行っただとか。希望のない時代だからこそ、シリアスだけど人間的な優しさを持った主人公像の「鬼滅の刃」が人気だとか。

他方で、フィクションの世界だからこそ、現実とはまるで正反対のものが流行ると考えても良さそうです。

バブル崩壊から停滞した日本で、やり直しのきかない世代。失われた20年とか時代が悪いみたいな言い方をするくせに、いざ人生のレールからはみ出たら戻れない世界。これが平成という世の中にある人たちの感覚であったと思います。

ゼロ年代アニメの代表たる「魔法少女まどかマギカ」をはじめ、KeyやLeafを代表とするノベルゲームの構造をとる作品、「ひぐらしのなく頃に」や「シュタインズ・ゲート」などのループもの、これらは自分の選べなかったルートに対してやり直しをできることに共感性を求める作品群でした。

まどマギが総決算と呼ばれる所以も、セカイ系・魔法少女・鬱展開・萌えキャラ・ループものといった、数々の平成的なアニメ要素をすべてシンクロできるクリエイティブとして存在するからでしょう。

そのラストは、世界の構造を作り直して、暁美ほむらが鹿目まどかを隣置きながら小さな幸せを掴むというものでした。いつ世界が崩壊するかもわからないアルティメットまどかという爆弾を抱えながらも、かつての日常をもう一度取り戻すという構造です。

何かが進むわけではなく、失われたものを取り戻せるという話が、エンタメとして人の欲望するものを満たしていた、それが平成のアニメだったと思います。

しかし、シン・エヴァは違いました。

例のダジャレ再び。作品の引っかかり

何が違ったのかを語る前に、新劇場版で引っかかるセリフがあります。

Qの「槍でやり直せる」、シン・エヴァの「シンジを信じる」です。

フォースンパクト起きるか起きまいかのシリアスシーンなのに、「”槍”で”やり”直せる」なんてダジャレが許容されているのが、当時しっくり来ませんでした。

カッコいい名言や台詞回しも多いエヴァにおいて、どうにも引っかかる感じが残るのです。

当時は意図して入れたわけではないだろうとスルーしたのですが、シン・エヴァにおいて確信にかわりました。「シンジを信じる」とかいうダジャレ弐号機の登場です。ラスト前の良いシーンで出すかこんなん。

ここまでくると、意図的に仕込んだセリフに思えてなりません。だからこそ、作品テーマに関わるからこそ、少し浮いた感じにしているのか、なんて邪推をしてしまいました。

このセリフをとっかかりに、ゼロ年代アニメとの違いを探っていきましょう。

まどマギとは違う世界の再構築

いきなりクライマックスからですが、シン・エヴァ劇中のDパート。ゲンドウの代わりに世界を作り変える権利を手にしたシンジでしたが、再びやり直すことを選びません。明確に、「やり直さない」とセリフになっており、Qのセリフを受けてます。マジで意図的にダジャレ入れとるぞコレ。しかし、ここが本作の”シン”な部分です。

序や破において、渚カヲルをループしてるっぽい感じでセリフを言わせつつ、破のラストとQを断絶させて、まさに平成の世に流行ったループものとしての性格を匂わせて、数々の考察を誘発してきました。Qは旧劇の続きだとか、シン・エヴァでは破の世界線に戻るんだとか、という例のアレです。私も信じとった。

ので、個人的にシン・エヴァを観る上で一番の懸念はここでした。ループものとしてのオチは平成でやりつくした感があるし、何より、同じ構造では「まどかマギカ」と変わらない話になってしまうのが心配だったのです。

かつての社会現象を巻き起こした、庵野秀明という監督の心の中全てをひねり出しきった作品として、そんなオチになったらどうしようかと思っていました。観た後一番イヤな展開としては、「映像はすごかったけど、まどマギっぽかった」と感じちゃうことでした。

そのあたりが、碇シンジのセリフとしても、やり直すわけではないと、新世紀だと、名言したことで、作品の性格が決まりました。

前述の通り、まどマギを始めとするループもの作品は、壊された日常へ再び戻ることをゴールとしています。それが、エヴァの場合はかつての日常に戻ることではありません。逆に、”かつて”なんてものは、”14年前”のものは、本作においては決別すべきものとして描かれています。

その象徴として描かれているのが式波アスカではないでしょうか。

惣流ではなくなぜ式波になったのか

アスカはTVシリーズや旧劇など、旧エヴァを象徴するキャラクターであり、記号です。ここでいうアスカは惣流を示します。綾波以上に旧エヴァの象徴としてふさわしい理由としては、やはり旧劇のラストにあるでしょう。

例のシーンにはいろいろな解釈がありますが、シンジが核になったサードインパクトにおいて、LCLに飲みこまれた際に一つになろうとするなか唯一「あなたとだけは死んでも嫌」と拒否することによって、ATフィールドを形成し、人の形のママ終劇を迎えたのだと言われています。

そういった、「自分以外の存在」というエヴァの物語のテーマにふさわしいキャラクターです。少なくとも、旧劇の時点ではアスカENDといえるような終わり方でもありました。

※余談ですが、こんなアスカENDをさらに深ぼった、エヴァ同人誌のRE-TAKEシリーズは二次創作というジャンル規模でみても傑作シリーズなので超超超オススメです。ドラえもん最終回級。

しかし、新劇場版では式波が登場します。名字が変わったくらいの同じキャラクターのようでありながら、惣流ではありません。理由としては、本作で明らかになりました。

「式波も量産型パイロットであった」

これ、アスカの量産はまさに記号として、キャラクターとして今日まで消費され続けてきた無数の惣流アスカを象徴するかのようでした。何度も繰り返し消費され尽くされるものの、無数に存在し続ける旧エヴァの象徴。

そんな式波アスカ(=旧エヴァ)に対して決別するというシーンがはっきり入っているのです。アスカからシンジに対して「昔好きだった」というセリフ、そしてシンジからアスカに対しても同じことを言う。

旧エヴァの象徴たるアスカとの別れです。でも、片方から一方的に伝えるのではありません。シンジからもアスカからも、かつて抱いていた好意を否定せず、ただ気持ちを伝えて別れるのです。作者と読者の関係性として、非常にフラットです。一方的ではない。

さらに、旧劇のラストシーンをオマージュしています。補完後の世界で、世界がLCLの海に飲まれた中で、黙って首をしめて「気持ち悪い」・・・ではなく、アスカとコミュニケーションをとって、そして自分の言葉で自分の気持を伝えるシーンになっています。一方的ではない。

そう、旧劇のように一方的なことはしません。押し付けないのです。庵野秀明の苦悩を映像に落とし込み、ファンを置き去りにしてでも、押し付けようとしていないのです。超丁寧。

これはシンジとゲンドウとの関係性にも言えます。

シンジとゲンドウが表象していたモノ

クライマックス、ようやく本気で親子の対話をしてくれました。しかも、殴り合いではなくコミュニケーションが大事だという話にもなってます。

13号機となったゲンドウと初号機のシンジで殴り合う。まさに親子喧嘩です。けれど、それでは物事が解決しないとゲンドウは認め、シンジの口から「コミュニケーションを取りたい」と言い出し、素直に受け入れる。

こんなエヴァ、旧劇の時にはありえません。

「庵野死ね」という書き込みをそのまま写したり、観客の姿を写したりと、お前らなんか「気持ち悪い」「信じられない」という”ガキ”だった時から、まさにQからシン・エヴァ冒頭にかけてのシンジの状態から、周りの人の存在を認識して、しっかりと向き合う筋に変わっています。

これは、庵野秀明の苦悩が抜けきった瞬間に感じられました。

エヴァという作品を象徴する存在であるシンジ
庵野秀明自身であるかのような苦悩を持ったゲンドウ

そこが向き合ったように感じたからです。シンジを信じることができた瞬間です。

クリエイターにとって、作品は自分の子に等しいものです。しかし、自分の生み出したものにもかからず、正面からみたくない瞬間があります。人の感想は欲しいのに、面と向かって聞きたくないなんて気持ちもあります。

けど、本作で庵野監督は向き合いました。

作品という自分の子供に向き合う

碇ゲンドウがネブカドネザルの鍵で人間を捨ててもなお、自分の息子に恐怖するように、それは庵野監督にとって、とても怖いことだったのかもしれません。

けれども、アスカがなぜシンジを殴りたかったかを問い、シンジ自身に「自分が責任を負うのが怖いから決断できなかった」とセリフをつけるまでして自分の状況を説明しました。自分に素直に向き合って、作品に対する恐怖を捨て去って、向き合うことができた庵野監督のエヴァに対する捉え方に聞こえます。

この瞬間、Qのカオスを抜けきったのだと思います。
エヴァを自分の責任で終わらせることを決めた。

作品に向き合うということは、そこに含まれるファンの反応に向き合うことでもあります。そこに向き合って作ったシン・エヴァなんだと、実感しました。

それもあってか、本作の映像表現は非常にエンタメ的です。ファンを楽しませようという試みを感じます。

パンフレットのインタビューにも書かれていますが、「シン・ゴジラ」を通して培った実写的なアニメ表現という試み。戦闘シーンなども、Qと違って明るめの音楽を使い、まさに派手な映像と音響で映画を楽しませるという意志を感じるものです。

監督本人の趣味も多分に入っています。電車は可愛いもので、使用方法の誤った軍艦の数々は無人在来線爆弾の無茶っぷりを彷彿とさせます。やはり艦長は船と共に沈ませたいし、死んでもなお意志を引き継がせるとか一回は憧れちゃうよね的なやつも含めて、男の子の夢的なものもふんだんと入れています。

TVシリーズ最終話で象徴的だった原画の投影をはじめとする旧シリーズのオマージュは、エヴァを見つめ直したからこそいじれる演出だったと思います。新劇場版で初めて旧エヴァのTVシリーズの映像を使い、「終わる世界」「世界の中心でアイを叫んだけもの」あるいは「まごころを君に」で登場した、舞台装置まで登場させるとは・・・です。

終始観客を追い詰めることはなく、キャラクターの心情をわかりやすくセリフにした親切設計で、シリーズイチわかりやすいキャラクター描写になっていたのではないでしょうか。観る人を置いていかず、手を差し伸べている。

まさに、自分が楽しいものを作っていて、人にも楽しんでもらいたいという表現でした。シン・エヴァの新しさです。

では、庵野監督は、エヴァは、何が変わった結果、こんなにも他者を受け入れるようになったのでしょうか。

「おおきなカブ㈱」という予告編

以前と違うのは、客観性です。シン・エヴァは旧劇やQのような庵野秀明のカオスな部分が侵食している作風ではありません。どちらかといえば、「シン・ゴジラ」に近い一歩引いた感じ。これは劇場パンフレットに書かれていたインタビューでも裏付けられています。庵野監督がスタッフに意見を求めたと。シンジ役の緒方恵美さんにシナリオの意見を求めたと。客観性が上がったと。

例えば、碇シンジが再び元気を取り戻すまでの過程。自分の殻に閉じこもるシンジが人の優しさに触れて元気になっていく姿をAパートの大部分を使って丁寧に描いています。第三村の話全般でかなりの時間をつかっています。2時間30分の長編になっている原因ですが、贅沢に使っています。

これはおそらく庵野監督の実体験に近いのだと思います。

特に農作業が描かれていますが、かつて「エヴァンゲリオン展」などに来場した方、あるいは別メディアで「おおきなカブ㈱」をご存知の方はピンと来たのではないでしょうか。畑がモチーフになった安野モヨコ(庵野監督の嫁)作画の漫画を・・・。今思えばシン・エヴァの予告でしたね、あれ。

これ何かというと、Q制作後にしばらくエヴァが作れなかった庵野監督の身に何が起きたのかということが分かる漫画です。

Qを制作した後、庵野監督は文字通りぶっ壊れて何もできない精神状況へと追い詰められました。多分メンがヘラったんだと思います。しかし、周りの支えが、再び仕事へと戻してくれたと。Qの後、「風立ちぬ」で主演を務め、「シン・ゴジラ」で実写監督を務めて、おそらくは他者の存在の大きさと自分に対する認識を整理しきれたんだと思います。それが客観性につながった。

結果として、Qで壊れた碇シンジは自分と世界の関わりを捉え直して、客観的に観ることによって、自分だけの世界から抜け出しました。好きだと言ってくれる人たちと、人の善意に触れることによって・・・。TVシリーズ第弐拾伍話「終わる世界」で描かれたような自分の中に籠もったシンジの姿はそこにはありません。

マリENDだから「さようなら」を

色々と振り返ってきましたが、ようやくタイトルを回収します。ラストシーンの意味。なぜマリが手を引いていったのか。

Q制作後のカオスから立ち直った庵野監督は、自分と世界とを客観的に捉え直すことによって、シン・エヴァにおけるシンジ(=エヴァンゲリオンという作品)と碇ゲンドウ(=庵野秀明)のコミュニケーションを成立させました。

ここにおいて、かつて自分が作った旧エヴァを愛する人を受け入れながら、エヴァに囚われず世界と向き合うことへのエールを込めることに至ったのではないでしょうか。

しかし、エヴァの呪縛から逃れるためには、旧エヴァの系譜を終わらせなければなりません。そのために必要なのは第三者でした。マリです。

旧エヴァの象徴である惣流からの系譜たる式波アスカという存在では、かつての日常を取り戻す平成の作品構造になります。よって、旧劇や貞本エヴァのようなアスカENDにはしていません。

アスカには前述の通り、旧劇のオマージュで丁寧に別れを描きました。そして、ゲンドウ、カヲル、レイそれぞれに心象世界で別れを告げました。一人ずつ、丁寧に、旧エヴァを彩ったキャラクターたちへ。

だから旧エヴァの登場人物は迎えに来ません。向かいのホームに見ることができるだけです。遠くはないが近くもない。過去の思い出を消し去らず、されど戻らず、です。

一方で、旧エヴァに存在していないマリはエヴァの呪縛にとらわれない立ち位置として描かれています。そも、新劇場版を通して、シンジとの関わりがほとんどありません。シンジにとって全く新しい存在なのです。過去ではなく未来、既知ではなく未知に連れ出してくれる存在です。

観客である私たち自身が、これからのマリとシンジの関係性を想像できないのです。レイやアスカやミサトさんのような、濃密な関係性が描かれていない、ほとんど未知のキャラクター。

だからマリが登場しました。
知らない世界へと連れ出してくれるために。

―――さて、以上が結論になりますが、もう一つだけ。

映画館で、なるほどマリENDか!なーんて油断した次の瞬間、庵野監督からN2兵器が投下されやがりました。

トドメの神木シンジ

碇シンジ役の緒方恵美さんの他作品をご存知の方であれば、シンジのような弱々しい役柄だけでなく、低音寄りのイケメンボイスを出せるキャストさんだとご存知でしょう。まさに成長したシンジにピッタリ。さもカッコいい声聞けんのかなー、とワクワクしてたら誰だオメー?

エンドクレジットで確認できましたが、ヒットアニメに欠かせない神木隆之介くんがクレジットされています。

もう旧エヴァに対するトドメです。碇シンジという最後に残った旧エヴァの成分を役者変更という大胆なことをして完全に消し去りました。

25年ずっと碇シンジを演じてきた役者さんを、その人の芝居で十分魅力的なはずなのに、最後の最後で変えるとか、自分の担当作品だったら流石に言い出せないっす。庵野監督じゃないと終わらせられない徹底的な幕引きです。

私たちの中から、碇シンジという、エヴァという作品そのものを解き放っていきました。

そして、ラストカットは実写的演出になっています。おそらくキャラクターはデジタル作画で背景に関しては実写を混ぜて作られたこの映像。劇中にはイマジナリとリアリティの話が出てきますが、リアリティの世界へと連れ出していく感じも、エヴァというイマジナリの世界からの解き放ちを感じさせる演出になっていました。

全てのエヴァンゲリオンにさようなら。そして、ありがとう。綾波レイと惣流アスカで綴られた旧エヴァを心に留めながら、マリに手を引かれた私たちの知らないシンジ君。駆け出す二人の姿を見送りながら、エヴァの呪縛は解き放たれました。

かつての日常は楽しかったものかもしれない、けれど、今を見つめる大人になって欲しい。平成でループし続け、変わらぬ日常を望み続けた私たちに、全く新しい「明日を生きることを考える」エールを込めた、そんな集大成でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?