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107年前、慶応義塾高校(当時は普通部)初優勝時の主将も、現・大村主将と同じ愛知県出身、自動車販売業界で活躍。優勝時の景気局面はどちらも拡張局面―景気の予告信号灯としての身近なデータ(2023年8月24日)―

新しいものが生まれてくる可能性がある、「エンジョイ・ベースボール」の精神生かした慶応義塾高校の優勝。

 8月23日の夏の全国高校野球決勝戦で、慶応義塾高校が初回に丸田湊斗外野手の夏の甲子園決勝戦史上初となる先頭打者本塁打で先制、その後5回には一挙5点を奪い、史上7校目の夏連覇を狙った仙台育英を8-2で下し、1916年の第2回大会以来107年ぶり2回目の優勝を果たしました。
 慶応義塾高校は筆者の母校です。今大会、「エンジョイ・ベースボール」の精神で、1戦1戦、強豪校を破り、勝ち上がる選手たちの姿に元気をもらいました。優勝を本当にうれしく思います。筆者が在籍した1973年度から75年度当時は、62年夏に出場したのを最後で甲子園出場が途絶えていて、慶応義塾普通部として第2回大会の優勝、第6回の準優勝の記録があることを知った時は「昔は強かった」という感じでした。74年の神奈川大会では準決勝まで進みましたが、のちにヤクルトにドラフト1位で入団した横浜高校のエース永川英植投手(故人)の前に敗退しました。その後、2005年春まで甲子園出場まで長いブランクがありました。
 「エンジョイ・ベースボール」の精神は、慶応義塾大学野球部で古くから提唱されていたということですが、高校では90年代に就任した上田誠前監督が米国留学時に個々に楽しむ野球を目にし、「野球は上から押しつけるものではない」として、広く使われるようになったということです。当時は、監督の指示が絶対とされた時代だったので、異端の考え方だったようです。
今大会の選手たちは「エンジョイ・ベースボール」を「より高いレベルで野球を楽しもうという合言葉」と解釈し、そのために自主性を大切にしているということです。
 大村主将は優勝後のインタビューで「ずっと日本一とか高校野球の常識を変えたいとか、散々大きなこと言ってきて笑われることもあって。いろいろ言われることもあったんですけど…でもそれに耐えて、そういう人を見返して、自分たちが絶対日本一になってやるんだっていう強い思いで今まで頑張ってきた。その辛い思いとかが全部報われたなっていう瞬間でした」と感無量の様子で話していました。また、「本当に自分たちが持っている実力プラスアルファの力をこの大きな応援が与えてくれた。自分たちの力だけじゃなくて、応援してくださった全ての人のおかげで優勝だと思っています」と大声援に感謝すると話していました。
 森林貴彦監督は優勝インタビューで「選手はにこやかな表情でプレーしてきました」という問いかけに対し、「うちがこうやって優勝することで、高校野球の新たな可能性とか、多様性とか、そういったものを何か示せればいいと思って、日本一を狙って、常識を覆すという目的に向かって頑張ってきた。何かうちの優勝から新しいものが生まれてくるのであれば、うれしく思いますし、うちの優勝だけではなくて、高校野球の新しい姿につながるようなこの勝利だったんじゃないかと思います」と答えていた。慶応義塾高校の107年ぶりの優勝が、高校野球のみならず、それ以外の分野でも新しいものが生まれるきっかけになって欲しいと思うところです。

自動車販売業界で活躍した愛知トヨタの創業者が、初優勝時の主将兼投手

 慶応義塾高校の初優勝は、旧制中学時代の慶応普通部が頂点に立った1916年の第2回大会です。第一次世界大戦が海外で続く中、大阪府の豊中グラウンドで行われました。
 愛知県碧南市「広報へきなん」の毎月1日号に連載されている「C・Sコラム 敬天愛人」の平成31年3月1日号に、初優勝時の主将であった、碧南の新川町出身の山口昇さん(故人)が次のように紹介されているので、一部を抜粋して紹介します。
 「1986(明治29)年生まれ、慶応義塾普通部の野球部で投手兼キャプテンを務め、1916(大正5)年の第2回全国中等学校野球大会(第30回大会から全国高等学校野球大会に改称)でホームランを打つなど、投打で大活躍し、全国優勝を果たしました。山口氏は、1935年、39歳のとき、トヨタの第一号ディーラー「日の出モータース」[のちの愛知トヨタ]を誕生させ」「1973年にはトヨタ自動車販売店協会会長に就任」するなど「自動車関連各種団体の要職を歴任しています」ということです。
 107年ぶりに優勝した現在の大村 昊澄(おおむら そらと)主将の出身が愛知県名古屋市ということで、世紀を超えて優勝した両チームの主将の出身地がどちらも愛知県ということになります。

世紀を超えた2回の慶応義塾高校・優勝年は、1916年も2023年も景気拡張局面という共通点

 明治・大正期の景気を、藤野正三郎編『景気・実用読本』を参考に振り返ってみましょう。この循環区分は、田村市郎「我国の景気循環と景気指数によるもので、トレンドからの偏差の極大値と極小値をもって景気の転換点を求めるという方式によるものです。日本の資本主義・恐慌の始まりは1890(明治23)年~92(明治25)年恐慌というのが定説になっているようです。その後、明治・大正時代で景気拡張期間が長かったのは、92年11月を谷とする日清戦争好況の64カ月、日露戦争の43カ月、第一次世界大戦の影響で連合国であったものの本土が戦地圏外にあった日本からの輸出急増を主因とする大正好況の45カ月でした。いずれも戦争と好景気、その後の調整というパターンがみられました。
 大正好況の景気の谷は1915大正4)年1月で、山の1918(大正7)年10月まで拡張局面が続きました。慶応義塾普通部が初優勝した1916(大正5)年はこの拡張局面に当たります。
 慶応義塾高校が2度目の優勝を果たした現在の、日本の景気は新型コロナの発生直後に大きく落ち込んだ20年5月を谷とする第17循環の拡張局面にあると考えられます。どちらも優勝した年は、景気拡張局面という共通点があります。現役の慶応義塾高校生はじめ塾生・塾員という慶応義塾関係者、そして慶応義塾高校の試合に感銘を受けた多くの人たちに元気を与えることが期待されます。

※なお、本投稿は情報提供を目的としており、金融取引などを提案するものではありません。