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心は身と別ではない(唯識に学ぶ003)

<心>というものが、私の身体のどこかに、別にあるように考えられるかもしれないが、そんなものはない。<心>と<身>とは一体不可分である。 <身>をはなれて<心>はないし、<心>と別に<身>が呼吸をしているのではない。私は生きている。生きているということは、<心>と<身>との渾然とした一体の人格として、いま、ここに、生きているのである。最も具体的な私の生は、<心>と<身>との統一体として、いずれを<心>、いずれを<身>と呼ぶことのできぬ全体として生きているのである。心即身であり、即自己である。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第二章より」

心即身。心と身。二つに分けつつも、二つに分けて捉えない。この「即」という考え方、捉え方が東洋哲学の面白いところです。

心を考える時に、どうしても頭だけでアレコレ考えがちですが、心と身は一体であり、この二つを切り離して考えることはできません。頭で理解を深めつつ、身を通して会得していく。心即身は、唯識を学ぶ際に忘れてはいけない重要なポイントではないでしょうか。

<心>の説かれる『正法眼蔵』に<身>の作法が説かれるのは、<心>が<身>と別ではないからである。最も具体的な人格は、<身>として表われる。人間の真価は、理屈や観念や思想や主義にあるのではない。その観念や思想や主義が、<身>にどのように具現化されているかということにある。
<心>の修行は、ねころがって思索をするというようなことでなされるのではない。身体で行うのである。
- 「仏教の心と禅(太田久紀著)第二章より」

心の修行は、身で行う。教行の一致。

靴を揃える、布団を畳む、歯を磨く、炊事や洗濯をするなど、日常生活も心の修行。仕事ばかりに気をとらわれすぎて、日常生活が疎かにならないように気をつけたいものですね。

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