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第六意識の能変性(唯識に学ぶ009)

一枚の写真を見るというのを考えてみよう。それはアルプスの山々を背にして一人の山男が立っている写真である。(略)眼識にうつっているのは一枚の平たい紙面にすぎない。しかしわれわれは、それを平面とはみない。近くの山男と何十キロも遠くの山々とみるのである。眼識にとっては一枚の平らな画面でしかない写真に何百キロもの深さを見出すのはなにか。そのはらきかけをするのが第六意識なのである。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第八章より」

目に映る空は、地球の反対側の空に繋がっている。一滴の水の中にも宇宙のすべてが内包されている。目に映るのは、ただの空、一滴の水だけど、その奥行きを観るのが第六意識の働きなのですね。

『碧眼録』の熱時…熱殺、寒時…寒殺は、しかし避暑法や寒さを防ぐ方法を言っているのではない。人生への姿勢を寒暑をとって説いているのである。
どうぞ幸になれますように、と願っている人は意外に幸にはなれないのかもしれぬ。われに七難八苦を与えたまえと決然と人生に立ち向かっていく人には七難八苦が七難八苦ではなくなるのではあるまいか。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第八章より」

ピンチに直面した時にピンチから逃げるのか、それとも、腹を据えて取り組み起死回生のチャンスとするか。それを判断するのも第六意識の働き。

「苦しい時は苦しみ抜け」という良寛和尚の言葉の通り、主体的に飛び込んでいくという姿勢を問われている様に思いました。

また、本の中には、小林秀雄 小品「モーツァルト」一節を取り上げてこのように書かれています。

雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきり演奏した様に鳴った。僕は脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第八章より」

このように六識には、前五識(感覚領域)と関わりを持ちながら、それを変えていくという働きとともに、感覚とは別に独自に働くという一面もあります。

たとえ、幻聴や空耳であろうと小林秀雄にとっては事実として「音楽」が聞こえました。周りの環境の音よりも、第六意識の働きによる「音楽」の方がより実在性があったといえます。

第六意識の働きは、思った以上にわたしたちの生き方に影響を及ぼしているのかもしれません。

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