見出し画像

朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑬(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します


敵ニハアレド・・・我ガ武士道
 
 次掲の写真は「中国無名戦死の墓」の墓標を書 いている姿。
写真説明は「無名戦士よ眠れ」と題 して
 「抗日の世迷ひ言にのせられたとは言へ、敵 兵もまた華と散ったのである、戰野に骸(むくろ)を横へ て風雨に爆された哀れな彼等が、勇士達の目に は大和魂の涙が浮ぶ。無名の敵戰士達よ眠れ!  白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫し渋る 優しき心の墓標だ。」
とある。 (朝日新聞・昭12-12-24)
 
 下の写真は、南京把江門近くの墓地で「中国人 戰没者慰霊祭」を日中共同で厳修している状景で ある。上海派遣軍参謀副長 上村利道大佐の陣中日誌(昭和十三年二月八日)には次のように記述されている。

 「堀江門脇ニ於テ支那軍戰死者ノ慰霊祭ヲ取り行フ (敵ニハアレ ド亡キガラニ花ヲ手向ケタル武士道ノ情ケナリ) 自治委員會ノ一行、日支ノ僧侶參列ス。」(「南京戰史資料集」二九九頁)
とある。

 自治委員会というのは、南京陥落わずか三週間後の一月三 日に結成され、残留市民三千数百 人が旗行列と爆竹で祝福した「南京自治委員会」のことである。

  光華門一番乗りの鯖江第三十六 聯隊の脇坂部隊長が東京裁判の証 言台で、次のように陳述している。

 「戦場掃除で部下将兵を茶昆(だび)に付 したのち、中国兵の死骸を集めて 埋葬した。部下に一向宗の僧侶も幾人か居り、夜通し読経が絶えなかつた」と、中国の戦死者をねんごろに埋葬しているのである。
 
 日露戦争の時、乃木将軍が露軍の戦没者将兵の墓をまず建立し、そのあと日本軍 将兵の墓を建立して、三年のち日露両軍の慰霊祭 を催行した逸話を想起する。脇坂大佐のこの話は、 武士道いまだ衰えずの感を深くする。
 日本兵はこ うして敵の戦死者にも花を手向けたのだ。武に強 く、情にやさしい武士なのである。どうして罪と がもない女や子供を虐殺するようなことがあろう か。 

 松井軍司令官は十二月十八日の戦没者慰霊祭 に、中国軍の戦没者も・・・・と発案したが実現はさ れなかった。帰還後もその念願は消えず、熱海市伊豆山に観音堂建立を発願された。
 大将がもっと も崇敬した乃木将軍の武士道の精神を継承し、日 中両戦没者を祭祀して、自らその堂守となった。

 観音像は、日中両軍が彼我の戦血に染みた大場鎮 や南京の土を取り寄せて、陶工加藤春二氏(のち 人間国宝)に依頼して本尊の観音像を作り、身長 一丈余の露座の観音様は、常滑(とこなめ)の柴山清風氏が制 作し、興亜観音と名付けた。大将みづから募金行 脚して、堂宇も立派に建立した。 

 大将の「興亜観音縁起」はこう述べている。
「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅 (そうめつ)す。 実に千載の悲惨事なり。然りと雖も、 是れ 所謂東亜民族救済の聖戦なり。惟ふ(おもう)に此の犠牲 たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の 行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたるものなり。(中略) 此の功徳を以て永く怨親平等に  回向し、諸人と倶に彼の観音力を念じ東亜の大光 明を仰がん事を祈る」 (全文カタカナ書き)  

 この興亜観音には、戦犯裁判で処刑されたBC級の一〇六八柱の御霊も祀られている。またのちに元首相吉田茂が揮毫した「七士之碑」が建立さ れ、この碑の下には「A級戦犯」と称して東京裁 判で処刑された 土肥原賢二、松井石根、東條英機、 武藤章、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎の七 士の遺骨が埋葬されている。
 立像のこの観音様は、遥かに南京に向かって合 掌しているといわれる。   

ーーーーーーー

    朝日新聞が報道した『平和甦る南京』の写真特集
             著者:田中正明  ( p、28~31 )

    ※ 深田先生から本の紹介の了解を得ています。
    ※ 次回も写真を載せたいと思います。



この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?