余情 7 〈小説〉


 家路を辿りながら、ふとポケットに入れたままだった携帯を取り出した。 今日はいったい何日なのか。それが知りたくなったのだ。指ではじいた画面に浮かび上がった日付は、八月二十五日。あなたが私に約束を取り付ける日の、三日前だった。私はすぐにポケットに携帯を戻した。
 胸の内側で、心臓ではないものが鳴り響いた。約束をされたら、私はまたあなたを失って十年を生きなくてはいけないのだろうか。それは鮮明な文字で頭のなかに浮かんだ文章だった。疑問符はつかない。あなたが私に約束を口にしたなら、私にはそれを跳ね返すことは出来ない。あなたの言葉には、ひとつとして否を言いたくない。それも、それほどに切実な約束だったなら、尚更だった。
 十年。
 その言葉が重たく肩に乗った。私は、確かにその時間を生きた。あなたの願ったことを叶えた。出来るだけ他人に迷惑を掛けないようにと心を砕いてきた。両親への親不孝は申し訳ないと思ったけれど、その気持ちが私を覆すことはなかった。だから両親の言葉には出来るだけ応えてきた。悲しませないよう、がっかりしないよう、心配させないよう、あなた以外なら、一番に心を働かせて動いたのだ。そして、死んだ。死んだはずだ。私は目覚める前の冷たさや、恐怖や固さを覚えている。現実味のありすぎた夢のように、喉を滑り降りずにこびりつく痰のように。確かな手触りで死へと降り立ったことを覚えている。
 それなのに、私はここにいる。
 目の前に走り込んできた電車が、大きな音が体を押す。ふわふわしていた足下に、力を込めながら、電車が停まるのを待った。
 アナウンスが流れ、ベルの音が響く。ドアの開く空気音と機械の回転。入り口にへばりつく人たちをよけた。ぱっくりと空いた空間を跨いで電車内へと入った。朝よりも人の数は多いが、所々にできた隙間のひとつへと腰を下ろした。窓の外は、背中側で明るい。午後を過ぎている光りは、今も暴力的に多勢で空間を埋め尽くしていた。電車の窓くらい易々と入り込んで、人の肩や首、背中を焼いていく。すぐ前で、小学生くらいの男の子二人と、彼らのどちらかの保護者なのだろう女性の話し声が聞こえた。楽しかった。熱かった。疲れた。金魚を死なせてしまった。シロクマが可愛かった。また行きたい。お父さんは何をしているの。どこの駅で降りるの。ジュースを買って。互いに話しをしながら、時々隣の女性へと会話を投げ、それに女性は私には聞こえないくらいの声で答えたり、笑ったり、首を振ったりしていた。彼らの隣では音楽を聴いている学生らしい男女。少しだけ空いた距離が二人の今の関係性を語っている。薄らと目を閉じた女の子を、ちらりちらりと男の子の視線が触った。どこかへ向かう途中の中年の女性のグループは、ひそひそとまるで違う言語を話しているようにお互いにだけ聞き取れる言葉を交わし合い、仕事の移動中なのか早退したのか、顔の白い男性が黙って座っていた。ここにいる何人もの人たちのなかに、誰か私と同じように、十年先から死を潜ってここにやってきた人は居ないだろうか。三日後に大切な人から、あなたが死んだ後の十年を生きることを約束する人は。その約束に頷いた一週間後に、大切なひとを失う人は居ないだろうか。居てはくれないだろうか。
 私はゆっくりと瞬きを繰り返した。そっと頬を落ちた物が、顎で落ちずに滑り降り、首を濡らした。短い髪の合間を縫って、この今日の日の太陽の刃が、その切っ先で貫いてくる。電車は、この暴力の中を走っていく。慣れ親しんだリズムが椅子の内側から突き上がる。それに体を小さく弾ませながら、私はまた瞬きを繰り返した。
 
 

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