見出し画像

余情 54〈小説〉

 はっとして、目を開けた。
 私は自分の手を見た。
 やせ細った手ではなかった。
 見覚えのある手の平だった。
 私は寝ているわけではなかった。椅子に座っていて、そして顔をゆっくりと上げた先には、あなたがいた。
 光は凶暴に窓の外を舐め回している。雲一つない空が、窓の外に広がっていた。
「どうしました」
 私はその声を聞いて、体が音を立てて崩れるような錯覚に襲われた。
 ああ、あなたの声はこんな声だった。
 覚えていたはずの声は、一度目の十年を戻った時のようには鮮明ではなかった。
 そんなはずはない、夢の中だから聞こえないのだと言い聞かせてきたけれど、今聞いてはっきりと理解した。私は、あなたの存在を過去と認識していたのだと。
「ごめんなさい」
 不思議そうなあなたに、私は何を伝えれば良いのか分からなかった。あなたの目の色を見て、彼女の目を思い出していた。まだ、出会っていないはずの目。私が落ちていくのを見つめた目。光に焼かれながらも、丸くて美しい目を、私は思い出していた。
「どうして、謝るの?」
 私はどうしたらよかったのか。混乱した頭が、どうにか涙で沈静化しようと努めるほど、あなたに対してどう説明したらいいのか考えて更に混乱した。
 しゃくりあげて泣き出した私を、あなたはじっと見つめながら、黙って待っていてくれた。そっと伸ばされた手は、私の手に乗せられ、微かな力で握られた。そのやり方が思いやりに満ちていて、また涙が出てきた。
 そのまま暫く泣き続けた私は、思い出したようにあなたに訊ねた。
「今日は、何月何日ですか」
「今日?今日は、八月二十八日だよ」
 あなたの口にした日付の衝撃は大きく、止まりかけていた私の涙は、ついに完全に止まった。
二十八日というのは、あなたが約束を口にした日だ。私は背筋を這い上る嫌な感覚に、今度は恐怖が体全体を覆った。
 急な態度の変化に、あなたは握ったままだった手に力を込めた。私の目を見つめる。
「何がどうしたの。ゆっくりで大丈夫だから話して」
 あなたの声は私の中にすっと落ちて、その意味に体は従順に従った。あなたはそばの棚に置かれていたティッシュを私に差し出し、私はそれで顔に残った水分を拭った。深呼吸をし、握ったままだったあなたの手を、私もしっかりと握り返した。
「おかしな話をします」
「ちょっと待って」
 あなたはクッションを背中にあてがい、途中で話を中断させないようにと姿勢を整えてくれた。本当は横になってもらう方がいいのだろうと思いながら、私はどうやってこの不思議な話をあなたにすればいいのか、考えた。
 そしてその話をするということは、あなたに、あなた自身の死を話すことでもあるのだ。
「あの、もしかしたら、私の話を聞いて気分が悪くなるかもしれません」
「いいよ。気分が悪くなったら看護師さんを呼んでくれたらいいんだから」
 あなたは淡々とした口調で、そう言った。慣れ親しんだ状態だから、と続けようとして飲み込んだのかも知れない。聞かせて欲しいと言うあなたの言葉を、私はお腹に呑み込んで、口を開いた。
 何から言えば良いのかを迷って、私はあなたが今日私に言おうと思っている約束の話をした。あなたは驚いて私を見て、そして
「君は未来から来たっていう話なの?」
と言った。私は口元を持ち上げながら、曖昧に笑った。
「そう。たしかにその約束を君にしようと思っていたよ。いや、決心していたという方が正しいかな」
 あなたの言葉に、私の心は小さく傷ついていた。私が聞きたくない、もう聞かないと誓っていても、あなたの決心の方がきっと深く固いものなのだ。その決心を胸に、あなたに口を開かれたら、私はまたその約束を聞いてしまうことが分かっていた。
 私は、一度口を閉じ、小さく開いた隙間から空気を全て吐き出した。次に息を吸い込んだら、その勢いに助けてもらいながら、言葉を外へと押し出した。
「その約束をした一週間後に、あなたは亡くなりました」
 あなたの表情が固まった。嘘や冗談でそんなことを、私が言わないことを、あなたは知っていた。だからこそ、私の言葉が真実なのだと呑み込んで、話を促してくれた。
「私は、十年生きました」
 私はその十年がどんなに苦しく、あなたの言葉を恨みたいと思いながら、それすらも出来なかったこと、いつでも心は嵐の中にあって、朝も夜も私には時が過ぎていく様子でしかなかったことを話した。あなたは静かに頷きながら、私の話を聞いていた。その目の真剣さが、私に勇気をくれた。握りしめたままの手が、かすかに震えているのを感じながら、私は話を続けた。
「十年後、私は自殺をしました」
 あなたが息を飲む音が聞こえた。責めるような目はされなかったけれど、頑張ったと褒めることもあなたはしなかった。
「それなのに、目が覚めたら十年前より十日ほど前にいたんです」
「それが今の君なの?」
 私は首を振った。
「その時も、あなたは私に約束をさせました。内容は同じです。日にちも、きっと同じでした。そしてあなたはやっぱり同じ日に息を引き取りました」
「じゃあ、それから君はまた十年後に」
 あなたの手が、しっかりと私の手を握っていた。けしてその言葉を逃がさないと言っているようだった。私から、静かな声が漏れた。疲れ切った人間の声だった。
「この十年は、一度目とはたくさんの違うことが起こった十年になりました。出会わなかった人に出会い、関係が続くはずではなかった人と関係が続き、働くはずではなかった場所で働き、したことのない生活をしました」
「楽しかった?」
 あなたはやさしくそう言った。その言い様は、質問のかたちをとっているのに、まるで確信を話しているようだった。私はオウム返しにその言葉をなぞった。
「楽しかった?」
「そう。出会った人、関係が続いた人、そして選ばなかった人生を選んだ日々は、楽しかった?」
 私はまた、涙が込み上がるのを必死で堪えた。あなたのいない世界で、どうして私が楽しかったと考えるのだろうか。その不満が口元に浮かんで、あなたはそれを目敏く見つけて笑った。今までの話がやわらかな糸に変わって、一瞬でほどけてしまったようだった。
「どうして、楽しかったと言ってはいけなかったような顔をするの?だって僕は、君が幸せになってくれるように、十年生きることを約束してもらいたかったんだから」
 幸せ、という言葉がふわりと浮かんで、そっとその輪郭を溶かしていった。やさしい淡い桃色は、彼女と見た桜の色だった。彼女が私に塗ってくれた爪の色だった。ぼんやりとして、角のない色。幸せを、あなたは願っていると言った。
「でも、あなたがいない。そんな場所で幸せになるなんて」
 置いていくくせに。そう言葉が胸で回った。私を置いていってしまうあなたは、私はあなたがいなくとも幸せになれると思っている。それがどうにも悔しい気持ちを広げた。一滴の濃い色が、じわっと染みを広げるように。
「でも、頑張ってくれたんでしょう?」
 あなたは変わらず笑っていた。自分が死ぬことを告げられているのに、私の幸せを知ろうとしているのだ。どうして、とまた口が動く。
「あなたがいないのに。私が幸せになったって、あなたは何も感じないところにいくのに」
 口に出した言葉に、一瞬にして次元が割れるような感覚が落ちてきた。あなたとの間に、一生消えない溝が走った。なんて酷い。言葉はどうやっても取り消せないと知っていたのに。取り繕うことなどできないと、言葉が胸に沈み込んでいく。言うべき言葉はあるのかも知れなかったが、後悔で重くなった口は、少しの隙間も作れなかった。
 私は自分の手ばかりを見ていたが、それで解決方法を思いつけるはずがなかった。私は思いきってあなたの方を見た。そこに軽蔑が浮かんでいても、必ず受け止めようと決意して。
けれど、そこにあったのは変わらない笑顔だった。私はふっと体の力が抜けていくのを感じた。あなたの笑顔は、開かせる力があった。あなたの持つ時間の短さが与えた力なのか、あなたが独自で研いた力なのかは分からないけれど、そこにある確かな力に私は抗えなかった。
 くっきりとしたノックの音が聞こえた。はっとして振り向くと、看護師があなたの状態をチェックしに来たところだった。私は立ち上がり、あなたを見た。
「明日、続きを聞かせて」
 あなたはそう言って、笑った。細めた目には、少しの痛みもないようだった。
 私は頷いて、あなたの病室をあとにした。病院を出ると、世界を焼き尽くすような光に目眩がした。そうだ、この暑さは、この後しばらく世界を焦がし続ける。三度目の十年前にいることを、私は受け止めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?