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祖母と、老猫のこれからの死への歩き方を考えている


うちには98歳になった祖母がいる。
15年くらい生きている猫がいる。

祖母は80くらいの時から認知症を発症している。
田舎の家から、母たちと同居することを決めて、いっしょに住み始めてからそれは進みはじめ、近くに散歩に出ては帰ってこられなくなることが多くなった。(すぐ近くを歩き回っていたから、その頃はすぐ見つかった)

その時は、川のそばに住んでいたのだけど、一度祖母が橋の真ん中から下をのぞき込んでいるところに出くわしたことがある。
何してるの?と、聞いた私に(その頃は私の名前分かってたなぁ)

「もう死のうと思って」

と、祖母は言った。
また別の日に、呼んでもご飯を食べに来ない祖母を呼びにいったら

「このまま、何も食べないでいれば死ねる」

と言った。
でもそんな気持ちでさえ、祖母は五分と持っていられなかった。
孫が生まれたが、名前を覚えることもできなかった。
今では私の名前も覚えていないし、母のことも分かってはいない。
家に帰ると言い出しては何度も出ていこうとすることが増えた。
祖母が家に帰ってくることはもう二度とないのだろうな、と私は思っている。
祖母は、小学校の先生をしていた。
自分が受け持った子供のことはよく覚えている、と言っていた。
今は、先生をしていたこともよく覚えていない。
好きだった時代劇、相撲、詩吟、どれも今は分からない。
かろうじて今も好きなものはウナギくらい。
あと、子供。

祖母が大好きだった私は、今、素直に彼女を好きでいられない。
それは仕方ないとも思う。
あまりに人間として抜け落ちてしまった、内側に沈み込んでしまった祖母という人間を、好きだったのに、今の彼女を好きだと言えない。

でも、それは恩知らずなんじゃないかとも思う。
あんなに良くしてもらっておいて、手がかかるようになったから好きと言えないのか、と。
私は時々、祖母が死にたい、と言ったあの時に死なせてやれる方法があれば、と思うこともある。
死にたい、という自己も失ってしまうことが、そのままで生きていることが本当に彼女にとって幸せなのか。
もうそれすら聞くことはできない。

今の家に越してきて、塀で囲まれていることが安心になっている。
玄関前と、駐車場に続く門には鍵をかけている。
それをかけ忘れると、必ず祖母は出ていった。
そのたびに驚くほど遠くで保護されて見つかる。
足がいたい、いたいと杖がないと歩けないはずの祖母は、外に出ていくときは杖がない分素早く、本当に足が動かなくなるまで、もしくは帰らなくてはという衝動が落ち着くまで、歩き続ける。
ここに越してきて、何度交番に行っただろう。
祖母は出ていくたび違う方向へ歩いていってしまうのも不思議で、なんだか祖母は帰り着くところを探しているようだと思う。

最近ではトイレに行くことも忘れてしまうようになった。
誰かが見ていれば大人しく座っているか、廊下を行ったり来たりするくらいの祖母は、誰の目もなくなると驚異的な動きでごみ箱の中身を机の上に並べたり、醤油やソースなどを棚から取り出してコップにいれて飲もうとしてみたり、虫の入る季節には窓という窓を開け放してみたり、する。

一度、カギをかけていたはずなのにいなくなり、また警察にいかなくてはと言うところで、私は自分の部屋に荷物を置きに行ったら(仕事帰り)私の部屋を華麗に模様替えし、クッションを集めて巣をつくり、そこでぼんやりと座っていた。暗闇の中に浮かび上がる祖母の薄い影は、なかなかの衝撃で、悲鳴を呑み込めたことが今でも不思議なくらいだ。
階段なんて上れたんだ、と家族みんなで恐怖した。

最近は食べ物を食べられなくなってきた。
飲み下すための筋肉が衰えて、いつまでも口の中に持っていてしまう。
しまいには食べている皿に出してしまう。
それを見て母は烈火のごとく怒る。
怒っても仕方ない。食べやすいものや好物を出す、食事の介助をする、肩回りのマッサージをする、無理には食べさせない。
時間がかかるし、手間もかかる。
しょうがない、それが年をとることだ。
そう繰り返して、祖母をみている。

毎朝、起こすときも、朝四時に起きていたころが嘘のように起きられなくなった。
この間なんて、祖母にはじめて「あと五分、、、」と言われた。
起こさないでいると昼間で寝ているのじゃないかと思う。

祖母の心に置いて行かれたからだが、今、追いつこうとしているようにみえる。
祖母の体も、また死のうとしているように見える。
顔のつくりも、まるで別人になってしまった祖母。
私や母のことがわからない以上に、自分のことが霧の向こうに消えてしまっている。何歳か分からないのはよく聞くけれど、祖母は生い立ちや、家族構成まで聞くたびに変わっている。話すエピソードも本当ではないことが多くなった。私はそれを聞いていくのが面白い。
そんなことをするようになって、もう別の人を好きなように、祖母の使っていた体を見送るための時間のように、少し穏やかに祖母を見ていられる時間が生まれる。

私は、祖母がゆっくり、たしかに、死んでいけることを願っている。


猫の話も書いておく。
うちはずっと生き物がいる家だった。
生き物がいるから、死もいつも近くにあった。
生き物は死ぬ。
圧倒的に、絶対的に、それはやさしいくらいに必ず、死ぬ。
それを胸に刻みながら子供時代を過ごしてきた私は延命ということが苦手だ。
少しでも愛する生き物に生きていてほしい気持ちは分かっても、それが命を延ばしていいことにはならないのじゃないかと思う。
生き物は、こちらの気持ちにこたえようとしてくれる。
もういいよ、とこちらがいってやらないと、いつまでも全力で自分が苦しいことを顧みず生きようとしてしまう。
それはつらい。
お互いに物凄く、心に爪を立てあって、その傷は恐ろしく長く痛んで残る。
今弱ってる猫を、撫でてやりながら、やっぱり私は延命はしないと考える。
このあたたかさや、細さ、軽さ、喉の歌うような音を、覚えていようと何度も反芻する。

このふたりは、死に歩き始めている。
もう後光のようにそれは差しているように思う。
だから、私はそれを見送る。
できるだけ穏やかに手を振れるように、毎日考えている。
死は、ただ恐ろしいものじゃない。
いつか私も辿り着くそこに、先にたどり着くひとたちをきちんと見ている。

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