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余情 39〈小説〉

 ずっと他人がいるという生活は、始まってみると思っていたほど大変ではなかった。
 初日に無事全ての家具、家電は届き、それぞれの部屋での荷解きも数時間で終わってしまった。夕食の買い出しに、二人でスーパーへ出た時には、お互いの料理の腕前を白状しあい、自炊はご飯を炊くところからはじめようと決めた。できあいもののメインと、サラダは自分達で用意し、食卓としたローテーブルの上は、十分な夕食の状態をつくつることができた。朝と昼は好きにとり、夜は出来るだけ一緒に用意をし、テーブルを囲むことをゆるく取り決めた。サラダは次の日の分も前の日の夕食つくりの時に多く作るようになり、日持ちがしそうな副菜を本やネットで調べては作ってみたりもした。結果的に、私の方が料理は向いていて、彼女は掃除や片付けに適正をもっていることが分かった。洗濯ものに関しては、私の持っている服と、彼女の着ているものの材質が違いすぎて、結局別々に日を分けて洗濯機を使うことに決めた。洗面所には、それぞれの洗濯物を入れておく大きな袋を置くことになった。
始まる前に話し込んで決めたことは、結局生活の中で半分以上のことが訂正されていった。今していることも、変わっていくはずだ。
 共同生活をはじめて一週間たった日、彼女はお祝いをしようと言い出した。小さなケーキを買ってきて、いつも行くスーパーではなく、駅のそばのデパートの地下でメインになるものをそれぞれで選んで、いつもの食卓に並べた。
「麦茶なのが残念です」
 彼女はそう言いながら、十分に楽しそうだった。彼女が出してきたキャンドルを灯すと、本当に何か特別な日のような気分が部屋の中に満ちた。
 外は赤い夕焼けを広げていた。レースのカーテン越しに、その赤が部屋の中にも触れていた。
「先輩、これどうぞ」
 彼女が、食事をはじめてすぐにそう言って差し出したのは、小さな包みだった。巾着形の袋に、緑色のリボンで口を絞っていた。促されるままそのリボンを解くと、中にはきれいな飾りの付いたキーホルダーが入っていた。包みの中からだし、キャンドルの炎にその飾りをかざしてみた。繊細なカットを施された、六面体を細長くしたような形の飾りが、金色のチェーンの先で揺れている。炎の揺らめきを透かしていると、その内側でいくつもの炎が閉じ込められているようだった。
「きれい」
 思わず溜息のように漏れた言葉に、彼女は嬉しそうに答えた。
「正六面体には、魂の浄化の作用があるそうですよ」
「へえ」
 彼女は、それ以上は何も言わなかったが、私の中にある葛藤を少しでも弱められたらという思いやりが感じられた。私は素直に「ありがとう」と言って、立ち上がった。玄関先に置きっ放しにしている家の鍵に、その細いチェーンを繋いだ。持ち上げてみると、そのキーホルダーも込みの重たさが、手に馴染む気がした。
「ありがとう」
 もう一度、今度は聞こえなくてもいいような音で零した。それを彼女はしっかりと受け取って
「どういたしまして」
とはっきりと返した。
 鍵を元の場所に置いておくことが何となく憚られ、私はボトムのポケットへと滑り込ませ、食卓へと戻った。
 本当は食事が終わってから、改まって渡そうと思っていたと彼女は言った。照れた表情を隠すことなく、炎に炙られたように赤くしながら、
「形は違いますが、お揃いです」
と自分の分を鞄から取り出して見せてくれた。彼女の方は、三角錐の形をしていて、線が少なくなった分、力強い印象があった。
「私は何も用意してなくて、申し訳ないな」
 そう言った私に、彼女は首を大きく横に振った。髪の毛の先が頬を叩くように当たる。
「私がしたかっただけですから。先輩放っておくと、鍵に適当なものを付けそうだったし」
 憎まれ口を付け足した彼女に、形だけの抗議をして私たちは食事を再開させた。テーブルの上のものがあらかた片付いて、ケーキを出す段になって、私も彼女といっしょに立ち上がった。
「キーホルダーのお礼にしたら釣り合わないけど、お茶は私が入れるね」
 ケトルに水を入れる私に、彼女は嬉しそうに「宜しくお願いします」と言った。
 ふと、並んで流しに立つ私たちは、いったいどんな関係に見えるのだろうか、と思った。彼女はケーキの箱を取り出して、パン皿に乗せて先にテーブルへと運んで行った。
食器類は本当に最低限のものしか買っていないため、大抵のものはこの丸く縁が少し持ち上がった皿に乗せて食べることになっていた。あとはマグカップとスープボールとサラダ皿。フォークとスプーンとお箸が一組ずつあるだけで、私たちの食器は底をついた。客人がくることは、お互いに考えていなかった。
 私はお湯が沸くのを待つ間、マグカップをテーブルから持ってきて、軽く水で濯いだ。あっという間に湧いたお湯を、紅茶のパックを入れたマグカップに注ぐ。安物の紅茶は、それでも熱湯が注がれたことで、大きく動いて赤い色を濃く広げていった。私はこの時間が好きだった。赤くなったその中に、私が揺れているのを眺める。さっきまでの浮かれた気持ちが、すっと内側にしまわれていく気がした。そしてもう気持ちが、手の届かない場所までいったのを見届けて、私は砂糖へと手を伸ばした。彼女の分にだけ一掬い。私はそのままで。役目を終えたティーパックを流しに捨てて、彼女の待つテーブルへと戻った。ケーキの白と、赤い紅茶を間に、私たちは祝いの終わりをゆっくりと楽しんだ。
 隣の若いご夫婦には、通路で鉢合わせになったときに挨拶をした。彼らは公園にでも行くのだろう、帽子に、大きな水筒を下げた姿だった。母親らしき人が言った。
「お友達とルームシェアですか」
 私は否定せず、笑顔で頷いた。
 隣に立も、腕を組んでも、私たちは友人に見えるのだろう。どんな感情を抱き合っていても、その肌に触りさえしなければ、それは嘘にならない。
 そうやって私たちは穏やかに夏をはじめていったのだった。

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