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余情 5 〈小説〉


 待合室の端のほうで時間をつぶしながら、私はあなたのことを考えないようにしていた。   
 もしもあなたが私のことを迷惑に思ったら。その思考を断つために、あなたのことを考えることを何とか邪魔しようとしていた。でも、それは、無理なことだった。気づくと私は、あなたのことを考えていた。背は高いだろうか。髪は長いだろうか。痩せているのか、太っているのか。そんな身体的なことのなかで、一番長く考えたのは、あなたの目のことだった。あなたはどんな目をしているのだろう。その目が私を迷惑そうに、または怪訝なふうに見たら。そして、はっと、あなたのことを考えないようにしていたことを思い出すのだった。
 どれくらいそうしてぼんやりとしていたのか。
 私はふとエレベーターのひとつを見つめた。
 そのドアが開き、降りてきた人たちを見た。その中の薄水色のパジャマを着た人が居た。この人があなたならいいのに。字の雰囲気にぴったりだ。少し長い前髪を真ん中で分けて、横に流していた。
その人はゆっくりと確実に私へと歩いてきた。
 近づくほど、その人の目がくっきりと見えた。じっと見つめていたその目が、私を見つけたことに気付いた。あ、と思った瞬間、その人はあなたになっていた。
 私の座った椅子のそばで立ち止まり、あなたは「手紙をくれた方ですか」と聞いた。
 私は驚くことができないほど驚いていた。「はい」と私が答えると、あなたは笑った。それが大きく私に響いて、思わず立ち上がった。長く握っていたペットボトルが落ちて、鈍い音も続いて立ち上がる。
 あなたは笑顔のまま、「付いてきて」と手を差し出した。その手を私は自然にとっていた。驚いたまま、きちんと挨拶もできない私をそっと歩かせた。
 あなたの黒い頭は私の頭の位置より一つ分は高かった。線が儚くて、その一本ずつを目で撫でた。私とあなたの周りにはたくさんの人が行きかっているのに、私にはあなたのたてるスリッパの音だけが聞こえた。
 あなたがエレベーターに乗り込み、私もそれに続く。あなたが押した階数は、さっき私が上がっていった階ではなかった。不思議そうな顔をした私に「部屋はちょっと片づけが間に合わなくて」と言った。
 エレベーターを下りて、あなたは慣れた様子で、けれどやはりゆっくりと歩いた。すれ違う看護師がいれば会釈をし、細いあなたの背中に私も習った。
 手を引かれて着いた場所は、昔は喫煙所だったが、場所を移したためにできたものだとあなたが言った。変に広い空間だった。素っ気ない茶色の、背もたれのない長椅子がいくつか置かれていた。
 あなたはその一つに座り、私に隣をすすめた。
 ほどかれた手を、自分の手が迎えに行って、やっと私は緊張していることに気が付いた。
「君が手紙をくれた人でいいのかな」
 あなたは私ではなく、前に視線を落としてもう一度確認した。
「はい、あの、そうです」
あなたの足元は、つま先が覆われた黒いサンダルだった。
「僕の返事を読んでくれたんですね」
「今朝届きました。それを読んだら、どうしても会いたくなりました」
 会いたくなりました。その言葉を自分の頭の中で繰り返して、じわりと心が赤くなった。今までの生きてきた時間のなかで、誰かに“会いたくなった”と面と向かって伝えた事があっただろうか。
「僕もです」
 だからあなたがそう言ったとき、勢いよく顔を上げ、あなたの顔を見つめてしまった。赤かった私の心が、恐ろしく燃え落ちるのを感じていた。

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