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余情 10 〈小説〉


 私はあなたのあとを追って死ななかったことを、ずっと後悔し続けてきた。
 どうしてあなたの死を見届けたその足で、死ななかったのか。
 いや、私は死のうとしたのだ。
 あなたが死んだことを知らされて。あなたのおばさんの協力のおかげで、あなたの死に顔を見た。
眠っているよう、なんてよく聞く文句だけれど、それは全くもって嘘っぱちだと思った。
 あなたの顔はしんとして、穏やかだなんてやさしい言葉を撥ね付けて、きっぱりと世界から隔絶されていた。髪の毛も、指先も、頬も、あなたが生きていた瞬間をどこにも残していなかった。
 眠っているようなら、どれだけよかっただろう。そんな遺族の気持ちが重なってできた言葉が、私の中で粉々になった。それは強い風に舞い上がり、二度と私に戻っては来なかった。
 涙もでなかった。
 どんな言葉をあなたのおばさんに掛けて出てきたのか。
私は交通量の多い道に架かった歩道橋の上にいた。足が、小さな段差をあがる。転落防止の頑丈な手すりを握りしめた。そしてそのまま、爪先立ちで下をのぞき込んだ。
 下から上がってくる排気ガスと、タイヤの音。それぞれの内側の現実が漏らす音。それらが微かにこぼれて、空に上っていく。
 それに逆らって、落ちていこう。
 そう思った瞬間だった。
 強く頭を殴られるように、視界を毟り取られた。あなたの顔が私の中をいっぱいにした。それ以外のものが、白く消し飛んでいた。私のなかの細胞が、一つ残らず作り替えられたような気がした。
 十年。
 あなたの声が響き、私の時間が戻ってきた。
 生きてみてください。
 あなたの声が途切れる。そう思った瞬間、その声の、音の、あなたの欠片を、手が掴もうとした。それは叶わず、あなたの声は失われ、そして私は世界に残された。あなたの約束が、体の中に真っ直ぐに打ち下ろされていた。杭のように曲がらない一線が、背中を通って、あらゆる内蔵を避けて、やさしく、絶対の強さで私の足の裏まで通っていた。
 だから、私は生きなくてはいけない。
 あなたと約束をしたから。それだけのために、耐えよう。あなたとの、たったひとつの約束を私は果たそう。そのためには、どんなに苦しくても耐えよう。あなたのいない日々を確かに味わい、あなたが世界よりも大切だったことを確かにして、それから。
 歩道橋にどれくらい立ち尽くしていたのかはおぼえていなかった。
 家に帰ったのはもう夜遅くで、心配した両親はまだ起きて待っていた。寝間着にも着替えておらず、いつでも外に行ける格好のまま。
 母は何度も玄関を出て、私の姿を外灯の向こうに探したといった。父はなにも言わなかったが、酒も飲まずに、いつでも車を出せるようにしていてくれていた。
 親は子供の心配をするものだから。
 ふたりはお互いの思いを私に伝え、そして同じことを口にした。
 今はとてもつらいだろうけれど、必ず立ち直れる。だから今はゆっくり休んで、元気になりなさい。
 私はなんと答えたのだったか。ぼんやりとしていられなくて、表情をつくったような気がする。
 わたしは大丈夫。ありがとう。
 そんなことを言ったかもしれない。何が大丈夫なのか分からないと思いながら。言葉を無理矢理に吐いていた。
 その日から私が、あなたのことを全く口にしなくなったことを、両親は心配した。しかし暫くすると、そのことを忘れてくれたようだった。
 恋のような。そんな思い出になったのだろうと。
 あの日の、遅くに帰ってきた私を出迎えた、両親の顔に張り付いた恐怖だけが、私にくっきりと残った。
 ああこの人たちは私が帰ってこないかもしれないと思ったのだ。そしてきっと十年後、私はこの顔をもう一度、この二人にさせるのだと胸に刻んだ。
 それでも私は決めていた。
 十年後、私は死を選ぶ。
 そうしてはじめた、死ぬための十年だった。
 
 
 夢を見た。
 私はふわふわと浮かんでいる。
 寒くも、怖くも、不安でもない。ただただ存在するだけの時間を意識している。
 まわりは靄に覆われていた。ぼんやりとした、やさしげな桃色が薄らと感じられる。
 それだけの夢だった。
 
 
 朝目が覚めて、まずしたことは昨日と同じだった。私は、あなたがいる世界にまだ居るのか。ぼさぼさの髪の毛の、ぼんやりした顔がパソコンのまっ暗な画面に映っていた。
 まるで子供のような顔だ。そう思って、まさに今、私は子供なのだと思い直した。
 部屋の中はまだ薄暗かった。昔は、休みの間は朝の時間には起きなかった。母が痺れを切らせて起こしに上がってくるまで、ベッドから起き上がることはなかった。
 今日も、あなたに会うことができる。
 昨日目が覚めた時は、半信半疑の状態だったために、こんな気持ちにはならなかった。今、私の身内で震えているのは、間違いなく喜びだった。か細く、柔らかく、それは頼りないのに体を共振させるほど強い。
 着替えて、髪を梳かし、時計を見上げた。まだ朝の四時を走っている。こんなに早くては、電車もまだ動いていない。体が興奮でおかしい。じっとしていられない、と思うのに、一方でどうしたらいいのか分からなかった。蹲って時をやり過ごしたいと思う。思わず口元が笑った。何を、しているのだろう。
 思えば、あなたが死んでからの十年を、私は何かを感じることを、強制的に止めていたのだ。楽しいも、嬉しいも、虚しいや苦しいを感じなくてすむのなら、無くて結構だった。顔を作れば笑顔になったし、間が抜けない程度に力を入れた顔で頷けば、人は話を聞いていると勘違いしてくれた。私でなければいけないことなんて、この世の中に何もないのだと、そのたびに感謝した。そしてあなたがいなくても同じなのだと分かった。
 世界にとって、その他の誰にとってそうであっても、私にはあなたは必要だったのだ。何かを感じて生きていくのには。
 ぼんやりとベッドに腰を下ろしたまま、時間が過ぎていくのを待った。いつの間にか蝉の盛大な合唱が始まっていた。吹き込んだ風が、カーテンを揺らした。こぼれた光が、私の肌をじりと焼いた。朝はもう大きく膨らんで、世界の中にまた、私は放り出された。
 

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