見出し画像

余情 9 〈小説〉


 家のドアを開けた瞬間、体の力が抜けた。その場に座り込む私の頭の上で、ドアが閉まりきる重たい音が聞こえた。あんなに体を貫いていた太陽光が、扉一枚であっけなく肌から抜けていく。
 あなたが、生きていた。生きている。
 駅から帰ってくる道々、自分の頭の中で繰り返した思考を、全くに否定する言葉。それなのに素直に背骨を伝っていった。
 冷たい玄関に、へばりつけていた手のひらを持ち上げる。砂を払いながら、いっしょに冷たさも落とそうと両手をすりあわせる。私の手のひら。すこし丸く、そして若い手のひら。どくん、どくんと、その小さな面積にも脈は打ち鳴らされている。
 顔は火照っていた。手のひらは冷えて、脈動からか、緊張が解けたからのものなのか、小刻みに震えていた。両手で口元を隠すように持って行き、息を長く吐き出した。手のひらから移ったように、唇まで震えた。何度か深く息を吐いた私は、やっとの思いで立ち上がった。その頃には、固い床に座っていたおしりが少し痛くなっていた。ふらつく足取りで、なんとか二階の自分の部屋へとあがった。
 過去のなかに置いてきたはずの、幼い部屋。それは安心を感じるはずの場所なのに、どこか私を責めるような冷たさがあった。
 朝に出たままの状態だったベッドに、腰を下ろす。開けたままにしていた窓から、温い風が入ってきた。白いレースが揺れて、床に繊細な影を落とす。
 ここは、なんだかあまりに記憶のままの部屋で、世界で、手の込んだ作り物のように感じる。体の力を抜き、そのまま後ろへ倒れ込んだ。数回スプリングが跳ねた。
 これは、確かにあの日々の私の空気だ。それが分かるから、余計に私は感じる。私は、この時間の私ではないのだと。この体は、紛うことなく本当だというのに、中身は自分自身の空気をかぎ分けられるほど、今の自分から遠いのだ。ここまで遠ければ、もう他人の距離だ。
 そっと手のひらを掲げ見た。視点が、手のひら、ひっくり返して手の甲に向けば向くほど、天井やカーテンの隙間から入り込む光の筋がぼんやりと霞んだ。私の手だというのに。  
 ここにいたはずの、今朝までの私はどこにいってしまったんだろうか。ここにいた私とは明らかに違う私が、果たしてあなたに触れることは許されることなのだろうか。
 ぐるぐると回る考えが、重たく瞼を撫でていく。光が和らいだからか、懐かしい場所だからなのか、張り詰めていたものがゆっくりとほどかれていく。眠りたいわけではなかったが、目を閉じたまま、意識が遠のいていくのを止められなかった。
 あかるい闇の中で、あなたが穏やかに目を開いている。思い出の中ではない。あなたがいる事実の中で、私は眠りに落ちていった。
 
 
 階下から、私を呼ぶ母の声が聞こえた。覚醒を意識するよりはやく、私は目を開いた。起き上がって、一度あたりを見回す。見慣れていた部屋だ。懐かしい。目を閉じる前に居た場所に、おそらく私はいた。ポケットに入れたままにしていた携帯を引っ張りだし、日時を確かめる。確かに、ここは目覚めた部屋だった。確信を持った瞬間、体のこわばりが溶けた。もしかすると、目を閉じるまでのことが夢で、ここはあなたがいなくなった後の時間にかえっているのではないか。それが恐ろしかった。
「ねえ、きこえてるの」
 階段を上がりながら母が大きな声で言った。
「聞こえてる!寝てたの」
 負けないくらいの大声を私も返すと、母は上がってくるのをやめて、また下へ戻っていく。
「ご飯の用意、休みの間は手伝うって約束でしょ」
「今降りる」
「早くしてよ」
 レースのカーテンの向こうは、もう夕暮れが始まっていた。
 そう言えば私は学生の頃、長い休みの度にこの約束を取り付けられていたのだった。この頃の私はこれを不服に思っていた。母親の作る料理の手間を知り、そして自立の一歩として母が私のことを考えて取り決めてくれたことだとは、頭で分かっていても。それは今の私なら理解出来ることで、この頃の私にはただただ面倒な約束事だった。料理が好きではない母にとって、私に手伝わせながらの夕食の準備が大変でなかったはずがなかった。
 この時の母の正しい考えは、私があなたにであったことで、そしてあなたがいなくなってしまうことで意味を失ってしまう。私は家を出ることがなかったために、料理は結局母任せになることが殆どだったし、何より私は母や父を置いて自死してしまうのだから。
 ベッドを下り、母の待つ台所へと向かう。長い昼寝をしてしまったために、体が少し怠かった。 
台所へと入ると、母が着慣れたエプロンをつけて、鍋の中身をかき混ぜていた。きれいに均等のとれた蝶々結びが母親の性格をひとつ表している。
「寝てたの?」
 母が振り返らずに聞いた。
「うん。ちょっと今日暑かったから」
 私は母に並んで立ち、手を洗う。そばに置いてあった野菜を洗い、まな板と野菜用の包丁を流しの下から抜き取る。
「キャベツは細切りにして。にんじんと胡瓜もね」
「トマトはないの」
「今日は高かったからなし」
 包丁を握って、言われた通りに野菜を切っていく。大きなボウルに移し、それぞれの色がきれいに混ざるようにする。テーブルに並べられているサラダ用の深めのまるい皿へ、それを移していった。
「今日、どこか出掛けてきたの」
 母の問いに、私は思わず動きを止めた。あなたに会いに病院へ行ったことを、母に正直に言うことが躊躇われた。私はこの時、なんと言ったのだったか。記憶が無いかと霞のスープの底をかき回してみても、こんな日常の些細な会話を覚えているはずもなかった。言葉を探している私をちらりと目で捕らえて母は小さく息を吐いた。
「ボランティアを勧めたのはお母さんだけど、あんまり頻繁に会いに行くのはやめなさい」
「どうして」
思わず強く返してしまった言葉に、自身で驚いた。
 手に持ったボウルの銀色に、私の顔がぼんやりとした影として映り込んでいる。母は次の料理の下準備をしながら、意識して平時の声を出しているようだった。いつもより言葉をはっきりと区切り、私にきちんと染みこんだのかを確認するように、肌を確認する。こういう時に、母は目を見ない。空気と同じように、母の意識を吸い込むことを強要するのだ。母の細胞に支えられ、母の栄養素を取り込み、母の外へ出てからも母の手を通したもので体を作ってきた。私の体は、母の意志を正確に理解する。その信号に従うことが自然なのだと私に働きかける。この時間に生きていた私は、確かに母からのこの圧力を疎ましく、拒もうと試み、そして大体のことで屈してきた。それは私の中にあなたという存在以前、母と正面を切って対決するほどの情熱を沸き立たせるものがなかったからだ。母は私のことを、母の意向に沿ってくれる娘だと思っていたことだろう。
「あなたにはきつい言葉になるけれど、やっぱり向こうの方にもご家族の方にもご迷惑だと思うの。体の調子の悪いときに、誰かの相手をしなくてはいけないのは大変なことなのよ。あなたにはまだ分からないと思うけれど。手紙をやりとりするくらいがいいの。お互いにね。あなた、忘れているかもしれないけど、学生なのよ。勉強はしてるの?」
「してるよ。心配しなくても大丈夫だよ。成績すごく良くはないけど、すごく悪くもないんだから」
「それは、知ってるけど」
 それでも心配するのが親ってものなの。
 母はそう言って、夕食のメインの揚げ物の衣を作り始めた。私に卵を溶かせながら、次の仕事を言いつけていく。
 ごめんね。そう言うことは憚られた。私は反省をしてはいないし、今度こそ、あなたに約束を口にさせず、すぐにあなたの死を追いかけるつもりなのだ。あなたに会えたこの奇跡を有用して、あなたとともに死ぬこと。それが私の奇跡の使い方なのだ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?