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余情 3 〈小説〉


 あなたの出会いは、私が中学三年生の冬だった。母がやっていたボランティアに、勉強の息抜きと、内申点の一石二鳥を狙って参加した。それは病院が生活の拠点になっている人に、手紙を書くというものだった。実際会いに行ったり、手伝ったりという行動が伴わないことが面倒でなくていい。そんなことを思ったのだ。
 わざわざ便箋を買ってきたりはしなかった。手紙なんて送り合う相手などいなかった私には、使い切ることができないだろうと思ったのだ。そんな私が引っ張り出してきたのは、小学生の時にクラスで催されたクリスマス会での、プレゼント交換でもらったままになっていたレターセットだった。絵本に出てくるような、デフォルメされた豚の絵が描かれている。子供っぽいこのレターセットを、使い切るいい機会だと思った。どうせ会うこともない人間なのだから、どう思われてもいいだろうと。
 ピンクの紙の上で、豚の兄弟が追いかけっこをしたり、花でいっぱいの籠を抱えて笑っていたりする。黒い真ん丸の目をした三匹は、縞々Tシャツを色違いで着ていた。兄弟がいたら、私もこんな風に共通点のある服を着たのかもしれない。母はそういうことが好きな人間だから、きっとお互いのクローゼットには揃いの服ばかりが、詰められることになっただろう。
 そんなことを考えながら書いていた手紙。誰に届くかは分からない。受け取った相手は返事を書いても、書かなくてもいいのだと聞いていた。それが気持ちを軽くし、身勝手に好き勝手なことを書かせた。
 正直何があなたの興味を引いたのか、そのあと何度も考えたけれど分からなかった。
 期待していなかった返事は、中央病院の一室から水色の封筒に入ってやってきた。
 土曜日の朝。バイトも部活もやっていない私にとって、寝過ごすことが決まりごとのようになっていた。遅い朝。寝起きのだらしない恰好で階段を下りようとした私の、視線を掻き抱いた水色。そこだけが季節の違う場所のようだった。なんだかいい音楽が流れてくるようだった。天国のように途方もなく遠くはない。自分の一番いい記憶を三つかけ合わせれば、こんな音楽になるかもしれない。そんな風に、ぎりぎり自分の地続きにある素敵なもの。それが、自分に届けられたものだと分かった時の複雑な喜び。手にする瞬間、私の心臓は高鳴っていた。あなたからの手紙は、私が持っているものの中で一番素敵なものになる予感がした。
 小さな手紙を、ゆっくりと開いた。あの、世界を開いていくような高揚感と緊張。乾いて小さな音を立てて開いた。
 あなたの手紙には、ゆったりとした文字が並んでいた。ひとつひとつの線は細く、けれど流れるようにきれいな字だった。私はあなたの言葉よりも、まずこの字を好きになった。何回も何回も、あなたの手紙を読んだ。ゆっくりと内容が染みこんだ。そしてやっと私はあなたが末尾に書いた「手紙の返事を待っています」という言葉に気づいた。
 私は慌てて着替えた。返事を書くためのレターセットも、切手も、何も用意は無かったのだ。あなたが手紙を待っているというのに。それが私には恐ろしく大変なことに感じた。一刻も早くそれらを手に入れて、私は手紙を書かなくてはいけない。そう思った。
 だから置かれていた朝食に手を付けることもなく、私は外気に鼻を赤くしながら、近くの文具店へと急いだ。
 あたたかな店内で、棚の前を行ったり来たりしながら、やっと一つのレターセットを手にとった。きれいな緑色に縁どられ、中に桜の花びらが散っている。枚数に対して値段が高いと感じたが、どうしてもこの便箋であなたに返事を書きたかった。
 そのレターセットの入った袋を、抱えるようにして帰り道を急いだ。早足のせいだけではなく、私は寒さも感じないくらい、自分の体の芯が熱を持っていた。
 部屋に戻り、もう一度あなたからの手紙を読み返した。手紙に顔を埋めるようにして、深く呼吸を繰り返し、広げたままそっとそれを机の隅へと置いた。
 返事を書き始めながら、私は自分の字の形や、字の間の空間の取り方を意識した。はじめての手紙では、あれやこれやと気にもせずに書き連ねたが、あなたという明確な相手に手紙を書くとなると、そうはいかなかった。意識したことで、本当にこんなことを書いてもいいのかと、なかなか進まなかった。こんなにも手紙一枚に真剣に取り組んだことも、緊張や使命感を感じたことも、私はなかった。
 書き終わってもなかなか封ができず、読み返しては、言い回しが間違っている気がしたり、あなたにはそぐわない話題のような気がしたたり。そうやって数日、読み返しては封筒にしまうということを繰り返した。それを知った母に、「いい加減に送らないと待ちくたびれてしまう」と、取り上げられるような形で封をされ、ポストへ投函された。
 それから数日、私は一日に、何度も郵便受けを覗いた。そわそわと、花が散っていくのを見つめているような気持ちだった。
 そうかと思えば、あなたからの返事が来た時のことを考えて、赤ちゃんの肌のような匂いのする雲に、顔を埋めているような心地にもなった。
 受験生だというのに、そんなそわそわした心持で、勉強には身が入らなかった。それなのに何故かそのことで、不安にはならなかった。手紙を待っているだけなのに、そんな不思議な時間が私を包んでいた。
 あなたからの手紙を私が見つけた時、どんな心地だったか。叫びだしたいような、ずっと胸にしまっておきたいような、一通目と同じ、水色の封筒を手にして、私は少しの間呆けたようにその場に立ち尽くしていた。
 どうやって部屋に戻ったのかは覚えていなかった。ドアを閉めた後、ベッドにダイブし、掲げるようにその水色を見た。
 手紙を開いたのは、どれくらい経ってからだっただろう。慎重に鋏を入れた。誰かの肌を裁断しているような気持ちに、飲み込まれそうになりながら、私はやっと中身を取り出した。
 白い便箋に、グレイの線が支えたあなたの字は、一通目と変わらない美しさだった。けれどほんの少しだけ、嬉しそうに跳ねているような気がした。
お返事をありがとう、と書き始められ、私に返事を待っていると書いたことを謝っていた。それは返事を強請ったことへの謝罪ではなかった。あなたが、私の返事を読めるまで生きている保証などないというのに、約束を結んでしまったことへの謝罪だった。
 それを読んで、私は驚いていた。
 私はどんな人に手紙を書いていたのか、そこでやっと思い出したのだ。
このきれいな字を書いた人は、今生きているのか。そんな疑問が浮かんだ。
あなたの手紙を読み進めた。やさしい言葉の選び方、ささやかに向けられる思いやり。二枚の便箋を何度も入れ替えて、私は読んだ。
 そうして、ふと、しかし当然のように、私はあなたに会いに行こうと決めた。
 これはお見舞いではない、と思った。会ったことも、話したこともない人間が、たった二回の手紙のやりとりをしただけの、あなたは、今、死を意識している人で、私はただの受験生だ。
 突然に会いに行っては、いけないかもしれない。
 そう考えなかったわけではなかった。
 行動の一番下地の部分は、確かにそれを警告していた。
 それでも私は、もう決めてしまっていたのだ。
 机の一番上の引き出しを開けて財布を、空いたもう片方の手でコートを引っ掴んでいた。
コートのポケットの片方には財布、もう片方にはあなたからの手紙を大切に入れて、私は家を飛び出していた。

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