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「茫洋」(私小説?)

 心療内科の待合の時間、私は茫洋となる。これが果たして暗喩としてなのか自信もなくなるほど。私が、茫洋としていくのではなく、私自身の色が薄められていき、何色とも言えないような光の照り返しになっていくのだ。茫洋という言葉の意味の、うねりの中の一部分、またはどこまでもが私、という状態になっていく。

それは素早く起こる変化で、待合の椅子に座ってスカートを直しているその最中から、すでにその方向に心は流れはじめている。そうなるともう、音は色を失くし、色は意味を失っている。空気のある場所と、真空が対峙しているようだった。浸食をされることがあっても、混ざり合うことはない。

明るく柔らかな色味の待合の壁の前に、私は座っている。壁には大きな画面が吊るされていて、自分を大切にするようにと、やさしい言葉が機械音声で流れ続ける。

事実が分からなくなるわけではない。ただ、自分の言葉の伝達技術の根本が間違っているのではないかと、思ってしまうのだ。私が私として、私を伝えることの重要性が奪われていくような気が。

頭が痛いと言えば痛みが鈍くなる薬を出され、気分が落ち込むと言えば別の薬を出され、胃が痛くなって夜中に転げまわると言えば胃薬をだされ、心臓が痛いと言えば夜よく眠れる薬を出され、呼吸をするのが苦しいと言えば舌を噛みそうな名前の薬を出される。

「あなたは漢方が効く状態を出ています」

というのに、胃薬だけは漢方薬をだしてくれる。

 私というものを治療に来ているはずなのに、私の状況をきちんと説明すればするほど、私を複写した何かに先生は対峙しているように見える。

 あ、と思った瞬間、茫洋の中に自分の身体が生々しく起き上がった。同じタイミングで罅割れた音で私の名前が呼ばれた。

 こんにちは、先生。頭が痛くて、眠ってもすぐに目が覚めてしまって、気持ちが落ち込んで、心臓が痛くて、熱が出て、眩暈がして、叫び出しそうで、暴れまわりそうな気がしています。全部私の心の何かの反応なのに、今日は何を処方してくれるんですか。ねぇ、先生。私をそうしている何かに、その薬は別々に向き合って話を聞いてくれますか。

 会計を済ませ、心療内科のドアを潜ると、空がとてもやさしい色に見える。雲が形であやしてくれているような気がしてくる。道行く人の影が薄く見えて、そのひとつずつにそっと「いいことが起きますように」と祈りを投げながら歩いた。

 私の内側の茫洋へ繋がる口が、静かに閉じていく。その底を引き摺るような重たい音が、背骨を降り切った少し広いところで響いていた。

 

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