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余情 6 〈小説〉


 ドアをノックする自分の手が震えた。
呼吸を押し上げている鼓動が、どんどんと圧力を上げていく。耳の奥まで迫ったそれが、私の顔全体を赤くしているのが分かった。
「どうぞ」
 耳に滑り込んできた音が、私の記憶の中の一音ずつと照合されていく。その速度が瞬間、ぴたりと静止した。
あなただ。
瞼から離れていく水滴が、落ちていくのが見えた。先に落ちていた数滴に、追いついてはじけ飛んだ。
「どうぞ?」
 あなたの声に耳が引っ張られ、体はそれについていった。静かなスライドドアが、私の前に世界を広げていく。
ベッドの上、あなたはこちらを見ていた。
こんなにも、光のあふれる部屋だっただろうか。鮮明に残っていた記憶が、あなたを目の前にして色を失っていく。その様子があまりに圧倒的で、瞼の裏に立って私はそれを見つめていた。目の前のあなたを見ているのに。あなたを真っすぐ見ていると、目が潰れてしまうのではないかと思えた。
「こんにちは。今日は来てくれる予定でしたか?」
「あ、いえ、すみません。突然来てしまって」
 目は大きく開いた。あなたの体がある。布団の膨らみが白い。あなたの生きている姿は、どこを見ても、物凄い情報を圧縮していた。すぐに私の中はいっぱいになっていた。
 あなたがいる。
 声を聴いた時に感じたその事実が、真っすぐに私を打った。ここにいるのは、あなただ。あなたは生きている。
 私はあなたのそばまで歩き、丸椅子を引き寄せて座った。
 肌の色が懐かしい。私はあれから十年生きて、沢山の人を見たと思うのに、この色には一度も出会えなかった。もう二度と見ることはできないと思っていた。
 あなたは、黙ったままの私を訝しがることもなく、逆になんとも面白そうに、目を細めて見ていた。
「今日も外は暑そうですね」
「はい、暑いです。駅まではまだよかったんですけど、電車を降りてから、ここまでが焼かれるようでした」
「よかったらお茶が冷蔵庫に入ってますよ」
 伏せてあるコップを指さして、あなたは言った。その棚のすぐ横の小さな冷蔵庫には、いつもペットボトルのお茶が入っていた。それはあなたが飲むためのものではなく、あなたのお見舞いに来る人のために、あなたのおばさんが買っておいてくれているものだった。   
 私はお礼を言い、そのお茶を飲んだ。喉に滑り込む冷たさが、自分の体温の高さをくっきりと示す。一面の熱を、垂直に切り開いていった。
「おいしい」
「それはよかった。びっくりするくらい顔が赤かったから」
「ほんとうに、とても外が暑くて」
「もう、夏も大分過ぎたはずなのにね」
「そうですね」
 そうだ。あなたが死んだ夏は、記録的な長さで、十月を超えても続いた。やっと朝晩が涼しくなったと思ったら、あっという間に、時間の採算をつけるように、一気に冬が深まった。あまりに唐突な季節の帳尻合わせに、平時は健康な人たちまでが体調を崩し、病院はパニック状態に陥った。野菜の値段は高騰し、気候の変化の激しさのストレスから家畜の急死が相次いだ。対策も後手に回り、年が明けてしばらくは混乱が続いた。遅れてきた世界の終末と言われ、ポップに味付けされては、あっちでもこっちでもまき散らされた。あの一種の狂乱が、これからやってくるなんて、不思議な気持ちだ。
 穏やかなあなたを見つめながら、唐突に、あなたはこれから死んでしまうのだ、と思い出した。
「大丈夫?今日はよくぼんやりしているけど」
「すみません。昨日は寝るのが遅かったから」
「何をしていたの?」
「えっと、本を読んでました。先が気になって、どうしても読み終えたくて」
「もう読み終わった?」
「はい、そのせいで変な夢を見てしまって」
「へえ」
「夢の中では、重力が失われているんです。いろんな物が浮いたままで、でも唐突に一部では重力が戻ったりして、浮いていた人が落ちたり、何かの上に刺さったり、上から物が落ちてきて潰れたり、そういう世界で、みんなふわふわ浮かんでいるんです」
「不思議な夢だね」
「どの人の表情も静かで、きっと私も同じ顔をしていたんだろうな」
 あなたはゆったりと瞬きをして、笑った。
「そこはまるで天国のようだね」
 細い眉が、そっと下りた。あなたが口にした、その言葉が私に沈み込む。あなたは何を見つめてそう言ったのか。今なら聞けるのだろうか。あなたは私の目を見ていた。私は何も聞くことはできなかった。私は、あなたが何と答えるのか知っていると思った。
「もうすぐ、お昼ですね。また明日きます」
「そんなに毎日来てもらって大丈夫?」
 あなたが弱く私を掴む。手首でも、指先でもない、私の心の緒を握りこむ。その力があまりに弱弱しいから、私はたくましく笑う。
「大丈夫です。私が、来たいだけなんです」
 椅子から立ち上がって、あなたに手を振って病室を出た。ドアが閉まりきっても、暫くの間その場を動けなかった。
クリーム色のドア。もう二度と開けることはないと思っていたドアを、見つめる。
 また明日。そんな言葉が、私の中にまた生まれるなんて。
 私は静かに深く息を吐いた。自分の感情の振れ幅が、容量を超える情報が、今体を弾き飛ばさんばかりだった。苦しい。苦しくて、懐かしい。あの日々の感覚だった。
 今日何度目かの感想が漏れる。
「本当に、戻ってきた」
 
 

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