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余情 35〈小説〉

 向かい合った後輩は、少し赤い顔をしていた。熱でもあるのかと聞くと、急いで来たからだと口を尖らせて言った。
「先輩からの呼び出しなんて、どれだけ貴重だと思っているんですか」
 そう言えば私から彼女に会いたいと言ったことはなかった。いつでも彼女の方から私を呼ぶから、私はすっかり手間を失っていたのだ。
 後輩の着ている赤いブラウスは生地が薄く、その下の細かなフリルが、小さな花のように透けて見えていた。それがとても可愛らしかった。
私は、口をできるだけ真っ直ぐに結ぶ。
「あのね、話をしたいの」
 すっと、後輩は手を私の前に立てて出した。待て、というような仕草に、彼女の目を見つめると悪戯を叱られることを、先に延ばす子供のような顔をしていた。その唇には、やはり淡い色が乗っている。急いでいても、やはり彼女はその色を抱えてくるのだ。後輩の細い手首には、星の砂のような金のブレスレットが巻かれていた。
「これ、今日買いました。私にとっては、この夏一番高い買い物でした。すごく気に入って、どうしても欲しくて、自分でもとっても似合っていると思うので、先輩に褒めてもらいたいんです」
「うん、とても似合っていると思うよ」
「先輩」
 後輩が言いかけたところに、店員が注文を取りにやってきた。私も彼女が来てから注文すると伝えていたので、紅茶とケーキを一つ頼んだ。後輩はメロンソーダを頼む。店員がいつもの丁寧なお辞儀をして去ってから、後輩は吹き出すように笑った。
「なんだか、タイミングが難しいですね」
「そうだね。最初に私の話の腰を折ったのはそっちだけどね」
「だって、先輩、別れ話しようとしていたでしょう」
 私は黙った。笑ってしまった口元は、もう元には戻せないので、仕方なく酷いと思いながらやさしく笑った。後輩はそれを見ながら、また手を私へかざした。きらりと揺れるその金が、白い肌に映えて、心から似合っていると思った。
「これを付けての最初のデートで別れ話はしないでください」
「そんな無茶な」
「無茶なことではないでしょう。今までも続けてこられたんですから」
 後輩の前に、注文した青くて緑のメロンソーダが運ばれてきた。その中をたくさんの透明の泡が上がっていく。白いクリームが蓋になってその自由は叶わないというのに、上ることしか知らない泡は一途だった。小さなチェリーを最初に口に運びながら、後輩はいつもの調子にもっていこうと、細やかな調整をしているようだった。
「無理だよ。私は君の先輩じゃなくなった。もう関係を保てない」
「関係の名前なら恋人でいいじゃないですか」
 私の前に運ばれてきた紅茶とケーキを見て、彼女はにっこりと笑って、ケーキを一口無断でさらっていった。
「何するの」
「お腹が急に空きました」
「何か注文する?」
「いいえ、この一口で十分です」
 後輩はストローに噛みつくようにして口に含んだ。そのままで私を見た。
「先輩は、私が嫌いですか」
「その聞き方はずるくない?」
「どうですか」
 一歩も引かない目を見て、私は観念した。両手を軽く挙げて、彼女にケーキをもう一口勧めてみた。指先で押したその意味に、彼女は気付いてそっともう一口分を、きれいにスプーンでさらっていった。
「好きだよ。だから一緒にいたし、時間を過ごしてきた」
「私が重いですか」
「いいや。いっそ私が重すぎる。私にはこの先なんていらないし、君の気持ちを受け取って喜びたくない」
「何故ですか」
「関係ない、って言える距離でいたいってこと」
「言えなくなって下さいよ」
「嫌だよ。そしたら」
 言葉が喉で爪を立てた。けして出て行かないと決意して、その場で自死することを覚悟して。喉の奥で、無意味になることを恐れないその言葉に、私はせめて自分に立てられた痛みの味を覚えていようと思った。
「そしたら、先輩は幸せになれますよ」
 後輩は笑った。いつか、あの本を私に読むようにいったつよい目で、私の手を確かにとろうとしていた。
 この手を取るのなら、そうだろう、きっと幸せというものになれるのかもしれない。
 けれどそれは、あなたのいない世界なのだ。私は、目を開けるような気持ちで、後輩を見つめ返した。
「分かっているよ。だから、もう会わない」
「分かっていません。先輩は、幸せになりたくないわけじゃない。幸せになってしまったあと、今の気持ちが変化してしまうことが怖いんでしょう?」
「変わったとして、戻るよ」
 私は柔らかく言葉を押し出した。嘘はなかった。必ず私はあなたへの気持ちに戻る。戻る場所としてここに立つ。本当に怖いと思っていることは。
「戻ってきた後に、その行為が苦しかったら、私はもうどうしようも出来なくなってしまう」
「このままだって、いいじゃないですか」
 彼女の必死な顔が、少し可哀想で、同じくらい可愛らしいと思っていた。それくらいには、私は彼女から離れていたのだ。この距離ならば、私は彼女を突き放すことも出来ないだろう。手はもう届かない。彼女から離れていくのは、もう流れの仕事だ。私は板きれに捕まって川を下ろうとしている。冷たい水に、痛い岩に揉まれながら、また意識を失うように生きていくことが出来るようなるだろう。
 店内の音楽がもう目を閉じてしまいそうなほど温い音程のものに変わっていた。閉店時間が近いのだろう。私は残っていた紅茶を流し込み、彼女の方へ勧めていたケーキを自分の前に戻し、残りを口へ運んだ。
「それじゃあ」
 言って立ち上がろうとした私を、彼女の手が掴み、浮かした腰を下ろさせた。
 項垂れた彼女の表情は、穏やかな証明の下で痛々しく見えた。唇を噛むわけでもなく、結ばれた口の内側では、溢れかえるように言葉が列を目まぐるしく入れ替えているのだろう。私を打ち付ける一矢を放とうと、その時間を稼ぐための非力な手が私を掴んでいた。
「先輩は、本当は分かっているんですよね。自分が、もう人生は楽しむことが出来る能力を回復していることに。それがあると、生きていたくなりそうですか?私といると、先輩の言う〝あなた〟の側に行けなくなりそうですか?〝あなた〟に顔向けできないって、感じているんですか?先輩は」
 言葉が続きそうになるのを、私は止めた。彼女が掴んでいた手を逆に握り返し、大きな音を立てて立ち上がり、その小さな口にかぶりついたのだ。お互いに目を開いたまま、彼女の瞳孔がこまかく揺れる様を見られるくらい近く見つめ合い、私は離れた。手の力はもう抜けていて、彼女の口は衝撃からまだ抜け切れていないようだった。
 私は伝票を手に、レジへと向かった。彼女が後ろでゆっくりと立ち上がり、静かに付いてくる。
 店員は何も聞いていない顔を崩さず、いつもの笑顔で私たちを見送る一礼をした。
 カランカランという、この店のドアベルの音が、私はけっこう気に入っていたことを、もうここには来られなくなってから、理解した。それを、残念には思わなかったけれど。
「先輩」
 彼女は私の少し後ろを付いてきていた。
「なに」
「もう少しだけ、話をしましょう」
 私は振り返り、彼女の燃えるような目を見た。それは怒りでも侮蔑でもなく、悲しみを満たした青い炎の揺らめきだった。
 私たちは、駅からそれほど遠くはない公園へと歩いた。時間がゆっくりと深まり、闇は電灯に追いやられながらも、危機感などとは無縁の様子で路地の奥や、街路樹の葉裏に身を置いていた。
 後ろから付いてくる彼女の足音に、その靴の踵の高さを考えた。急いで来たとはいっても、口紅を引くことは忘れなかったように、彼女は靴もけして妥協して履いてきたわけではないのだろう。出来る限りの完璧な彼女で、私のもとに急いでくれた。それはいつもの彼女の姿だった。たとえ本意ではない話だと感付いていたとしても。
 公園は、ブランコと滑り台が一つずつあるだけの小さなもので、今まで通り過ぎるばかりで、中に入ったことはなかった。端の方は草が伸びていたが、ゴミが落ちていたりはしなかった。緑のフェンスに囲まれ、ここは少しだけ街とは違う次元に浮かんでいる。そんな雰囲気が夜の公園にはあった。
 黙ってベンチに向かおうとしたら、後輩がブランコにしようと提案した。そして私の意見など聞かずに、私を通り越してブランコの片方へと腰を下ろした。地面が近い位置にあるので、彼女の白いスカートの裾が土を触る。けれどそんなことは、全く気にせず、彼女は勢いをつけてブランコを漕ぎ始めた。ささやかな生活の音。夜空に、彼女の漕ぐブランコの金属音が大きく吸い込まれていく。
 彼女にならって隣のブランコに腰をかけた私は、揺れを大きくしていく彼女を目で追った。その音が上っていく空を見上げる。星は数えるほどしかでていない。黒くてさみしい夜空だった。
「私は、先輩を引き留めたいです」
「知っているよ」
 勢いを緩めることなく彼女は言った。その言葉も上っていく場所は、同じさみしい場所だ。揺れる視界で誤魔化しても、さみしい場所だ。私の目から放り出される線も、それについて上っていく。見送るように、いつまでも上を見ていたら、首が硬くなっていくような気がした。反射的にぐるりと首を回す。手が掴む鎖の部分は、分厚い保護シートに守られていて、私が幼かった頃のように、鎖のつなぎ目に皮膚を噛ませるようなことにはならないようだ。けれどこれでは汗をかいたら滑ってしまうのではないかと、見ず知らずの子供のことを思った。
 夏の大三角というけれど、本当にこれがその星なのか、私は今もよく分からなかった。さみしい、と形容しても、それは場所ではなく、見上げている私の中身のことを説明した言葉なのだと、唐突に夜空は鏡のように理解を跳ね返した。さみしいのは、私の中身。
「先輩は、なんだか、私が手を放してしまったら、もう二度と幸せに向かい合ってくれないって確信があります」
「怖い確信だ」
「先輩は、何をしている時が幸せですか」
「いきなりだね」
「幸せって感じる瞬間は、毎日にありますか」
 私は膝の屈伸運動程度の揺れの中で、自分の中身を覗き込んでみた。いつだか後輩に素直になったと言われたが、本当だったなと送れて納得した。私の中は、まっ暗だ。星なんて一つも見えない。私の中は、もう光を失った夜空だ。あまりに美しく輝いた星を、その記憶を手放すことが出来ない。そしてそれと共に宇宙を閉じようと決めている。動きのない宇宙。心は自分の宇宙を覗き込み、私の目はずっと上の方をまた仰いでいた。
「幸せは、過去にあるだけで十分だよ」
 遠い星のひとつが瞬く。誰へ向けての合図なのか、拾ってしまった私が、私に向けて解釈していいのなら、もう十分と頷いてくれたと思うだろう。私にはもう一生分の幸福が降り注いだ後なのだから、と。
「それじゃあ、枯渇しますよ」
 隣で今も力一杯ブランコを漕ぐ後輩の声は、軋む音の向こうで微かにかすれている。それを心配することはできなかった。私にはもう、荷が重いことなのだ。
「もう、会いにこないで。今まで、ありがとう」
 私は立ち上がり、そっと公園を出た。背中を追いかけてくるブランコの音が、いつまでも力強く耳に響いていた。

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