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余情 4 〈小説〉


 社会人になっても家を出なかったのは、甘えであり、長くはできない親孝行のつもりだった。孫の顔を見せることも、何かあった時に手助けをすることも、私には出来ない。
 それが親不孝なのか、と聞かれると、正直私には分からなかった。けれど、できない理由が、あなたを追いかけて死ぬから、というのは十分に親不孝といえるのではないかと思った。
 会社に勤め出してからは乗らなかった路線の景色を、肩越しに目に流す。
殆どが住宅地で、ある一角から商店が並びだし、道路は唐突に太くなる。それほど田舎ではないが、都会というのは憚られる。そんな中途半端に便利で、特徴のない街だ。
 あなたに出会う前の私では、それをこんなに温かい目でみることはできなかっただろう。
 あなたの手紙を握りしめて乗り込んだ、あの冬。紺のコート。大きなポケットの中の手紙を、温かなコートの布地越しに撫でながら、目的の駅までの時間を過ごした。
 あの出会いは今の私にとってどれくらい前のことになるのだろうか。重ねた十年を数えていいのか、現時点の私の年齢から考えるべきなのか。
 私があなたと出会って過ごした時間は、本当に短かった。
 私があの時決めたことは、結果として間違っていなかった。
 なんの連絡もなく病院にやってきた私は、困惑した。病院を利用するならまだしも、誰かに会いに来るなんて。中学生の私は受付で懸命に説明し、対応してくれた人のやさしい笑顔に励まされ、どこに行けばいいのかを知ることが出来た。
 四階のナースセンターで、あなたの名前を伝えれば部屋を教えてくれる、ただ、必ず会えるかは、そこで聞いてもらわないと分からないと言われた。
何台かが並んだエレベーターの隣、ひっそりとした階段を見つけ、私はそれで四階へと向かった。窓から、冷徹を剥ぎ取られた冬の光が落ちてきていた。二段飛ばしで駆け上がる、私の首筋がそれを撥ね返した。
 四階まで、ほぼノンストップでたどり着いた私は、結果としてあなたにすぐには会えなかった。投薬の関係で、どうしても午前中は意識がはっきりしないのだと聞いた。だから午後まで待ってもらえるなら、と看護師はいった。
 私は看護師にあなたへの言伝を頼んだ。一階の待ち合いで待っているからと。
 まだ朝の中に病院はあった。来た時とは違い、一段ごとにゆっくりと踏みしめて下りて行った。はじまったばかりの喧騒が、足先へ近づいては引いていった。
 私は、人の途切れない受付をながめて待つことにした。売店で買ったジュースがゆっくりと温くなり、それを舐めながら私はあなたを待った。
 入り口からずっと続く、大きな窓から入る光は、手入れされた木々の間を通り抜け、淡く緑の色付けがされて落ちてきた。
 あなたを、どれくらい待っていたのか。その時私は何を考えていたのか。  思い出せるのは、静かに順番を待つ人たちの影ばかりだ。
 あの日と今では、光の多さはどれくらい違うだろう。
 
 
 あなたのいる病院への道は、今でも目をつぶって辿りつけるはずだ。
 道路からは、はやくも蜃気楼が昇りそうな気温だった。電車を降りた私は、四方から圧力をかけられているような息苦しさの中に沈んだ。駅の階段を降り、網膜に焼き付いている風景の中に、迷いなく入り込んだ。
 街路樹の青さ。空のすっきりとした感触。たっぷりとした雲は白いばかりで、電線の重なり方さえ私の感傷に触った。
 白い病院。大きな駐車場。何台かが待機しているタクシー。売店の規模が大きく、コンビニのような品ぞろえだった。
 駅から十分もかからない道のり。見慣れた受付を通り過ぎ、何人かがすでに待っているエレベーターと迷い、階段へと進んだ。
 空調のきいた院内の中で、更に冷たい空気を満たしている。青系の床材に、更に濃い色の階段のすべり止めを、つま先で踏みしめる。二段飛ばし、二段飛ばし、小刻みに上る。踊り場で心を落ち着けて、また足を速めた。見慣れたナースステーションが見えて、私は意識してゆっくりと残りの階段を上った。
 気安くなった看護師の女性が、私に気付いて微笑んだ。下の受付よりも親密に張り付く視線が、ここは弱った人を保護している場所なのだと主張していた。健康な人間は、配慮せよ。そう強く、言葉にはされない領域から、肌に直接染み込んでくる。
 小さく会釈をして、あなたの病室の前へと向かった。甘い緑色の床が、視界の半分を埋める。クリーム色の壁。鈍い銀色のドアの取手は大きく、縦に長く取り付けられている。白いプレートの中に、確かにあなたの名前があった。
 それだけのことが、胸に迫って苦しかった。息ができないほどの圧倒的な幸福感が生まれる。溢れそうになる涙を、深呼吸でなんとか押しとどめた。
 ここに立つまで、あなたの名前があるこの部屋を前にするまで、私は本心からはこの事態を受け入れていなかった。
 あなたがいる。
 たしかに、ここにいるのだ。
 私は大きく開けたままの口を両手で包み、今度こそ抑えきれなかった大きな水たまりを落とした。


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