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地域の歴史と文化を大事にするのは難しい【ごてんまりの歴史】

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

今月22日と23日の2日間、第53回全国ごてんまりコンクールが開催されました。
場所は由利本荘市の鶴舞会館3階です。
ご覧いただいた方もいらっしゃるでしょうか?
そこでは本荘ごてんまりを説明する、こんなボードが置かれていました。

ごてんまりコンクール 説明

「本荘ごてんまり」のはじまり
本荘に古くから伝わる手まりには、石沢鮎瀬にある広田庵の尼僧木妙が鮎瀬の村娘に伝えた「かけまり」があり、豊島スエノさん(明治21年鮎瀬生まれ)が、この手法を現代に伝えていました。
一方、後町の料亭「甚能亭」で働いていた斉藤ユキノ(旧名・田村正子)さんと児玉八重子さんは、昭和34年頃、日役町蔵堅寺の庫裡にころがっていた古い手まりから、その製作技法を復元することに成功しました。
偶然にも豊島スエノさんの娘の大門トミエさんも甚能亭で働いており、石沢と後町の手まりが出会うことになりました。
やがて斉藤さんらの作った手まりは秋田市の「田中企業」が買い取っておみやげ品として売られることになりましたが、「せっかく本荘の人たちが作っているのだから、”本荘ごてんまり”としたらどうか」ということで「本荘ごてんまり」の名前が誕生しました。
昭和36年の秋田国体の際には、豊島さん、斉藤さん、小松コノエさんらが、本荘に宿泊していた国体選手に手まりを記念品として贈り、この時、選手によって持ち帰られた「本荘ごてんまり」が、全国にその名を知られるきっかけとなりました。


「本荘ごてんまり」のはじまりに関して、昭和の女性たちが活躍したエピソードが触れられています。

しかし2階で行われていた由利本荘市工芸品展では、まったく違う説明がされていました。

由利本荘市工芸

御殿女中説 ひまわり会

こちらは工芸品展の会場で販売されていたごてんまりです。
同封された紙に「本荘のごてんまりは、江戸時代初期に本荘城に移った楯岡豊前満茂の御殿女中たちが遊戯用に作ったのが始まりとされている。」と書かれていますね。

階が一つ違うだけで、本荘ごてんまりについて全然別の説明がされているなんて、興味深いですね。
2階で販売している人たちに確認したところ、コンクールの運営とは完全に別団体だそうです。
これは同じ屋根の下にいながら、別の人(団体)が本荘ごてんまりの創始についてそれぞれ別のことを言っている、という構図でした。


違う人がそれぞれ別の説明をしているのだったらまだ分かりますが、本荘ごてんまりの歴史は、なんとびっくり。
同じ人(団体)が違うメディアでまったく異なる説明をしている、ということもあります。

秋田県の工芸 SOU

この冊子は、つい先日羽後本荘駅に行ったときに見つけました。
タイトルは「秋田県の伝統工芸品 SOU」。
秋田県が発行している冊子のようです。
中を開いてみると、本荘ごてんまりに関するページもありました。

SOUの中身

「江戸時代に本荘城の女中が作って遊んだものが庶民に伝わったとされ、球体の三方に下げられた房が特徴だ。」と書いてありますね。
下には由利本荘市観光協会の名前があります。

しかし由利本荘市観光協会のHPを見ると、「江戸期の手まりは、御殿女中から庶民に伝わったとも言われていますが、本荘には記録としては残っておらず、現在は歴史ロマンを感じさせる説として広まっています。」と書いてあります。

一方では江戸時代に作られたと説明し、一方ではそんなことは記録として残っていないと説明する。
一体どちらが本当なのでしょう?
もちろんこれは観光協会の人ではなく、冊子『SOU』のスタッフが書いた文章なのかもしれませんが、こうして真逆の説明が同時にされてしまうと、読者は混乱してしまいますよね。

掲載前のきちんとした説明やチェックはなかったのでしょうか。


一応本当のことを言っておくと、本荘の地で”ごてんまり”が生まれたのは昭和の時代です。
江戸時代ではありません。
まりの三方に房の付いた、いわゆる”本荘ごてんまり”が生まれたのは、昭和39年頃斉藤ユキノ(田村正子)さんたちのグループによってだと言われています。
だから時代の説明で言えば鶴舞会館3階のボードと、由利本荘市観光協会のHPの説明が正しいのですが、かつては(旧)本荘市自体が「ごてんまりは江戸時代の御殿女中によって作られた」と説明してきた時期もあったので、他業者が誤解をそのまま書いているのは仕方ない部分もあります。
本荘ごてんまりは江戸時代の御殿女中によって生まれたという、虚構の話が市勢要覧や観光パンフなどに転載されることによって、民間にも広まってしまったのです。

もし詳しい事情が知りたい方は、石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年本荘由利地域史研究会をご覧下さい。
由利本荘市の図書館で読めます。
この本荘ごてんまり創始における大いなる誤解について、「『ごてん』を『御殿』と曲解した旺盛な創造力の持ち主が作文した結果である。」とまで言って批判した人もいます。(注1)
前々から批判されているのに、未だに本荘ごてんまり創始の説明に御殿女中説を持ち出す人が絶えません。
民間業者だけでなく、市や県でさえも未だに本荘ごてんまりについて「江戸時代の御殿女中うんぬん」と説明をすることもあるので、なかなか正しい歴史が広まらないんです。

今回の全国ごてんまりコンクールをご覧になるにあたり、羽後本荘駅を利用していらっしゃった方の中には、もしかするとこれら全ての本荘のごてんまりに関する様々な説明を目にした方もいらっしゃるかもしれません。
きっと「どういうことなの。何が正しいの?」と混乱してしまったことでしょう。
本当に申し訳ないと思います。

だからこそどうにかしたい、と思っています。
残念ながらこんな嘘かまことか分からない情報が乱立して、本荘のごてんまりに興味を持ってくださる方を混乱させてしまう状況というのは、昭和、平成、令和の現在まで続いています。
これが本荘のごてんまりの現状です。

地域の歴史と文化を大事にする、というのは思ったより簡単なことではありません。具体的にどうするのが正しいのでしょうか?
わたしは、この土地にごてんまりの歴史についてきちんと説明できる人間がやはり必要だと考えます。
〈ゆりてまり〉は「ごてんまりの”分かる”と”できる”を届けたい」をモットーに活動しています。
この虚構の話はわたしの時代で終わらせたい、本当にそう思います。



(注1)今野喜次「本荘八幡神社祭典と傘鉾―――傘鉾の復活を願って――――」『由理』第三号  平成22年12月 本荘由利地域市研究会 p.37

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