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ルース・ベネディクト 菊と刀

読書記録です。


第1章 研究課題—日本
戦争のために日本を研究することが研究の発端だったこと、人類学のスタンスや価値などについて。

第2章 戦争中の日本人
明らかな死地に飛び込んできた、物質的に負けているのにそれを超えようと日本人の特殊な精神性について。天皇への忠誠や生まれの土地への想いからくるものだった。

第3章 「各々其ノトコロヲ得」
日本の階層性について。

第4章 明治維新
カット。

第5章 過去と世間に負目を負う者

恩について。
obiligation(義務)、loiyalty(忠誠)、kindness(親切)love(愛)にも訳されるが、どれも正確ではないという。
全ての用法に通じる意味を以下のようにまとめた。

人ができるだけの力を出して背負う負担、債務、重荷である。

例えば忠犬ハチ公は主人に献身的な愛情を向けるが、前提には受けた恩がある。アメリカ人の愛は「義務の拘束を受けることなく自由に与えられるもの」だそう。

また、恩の有り難くなさという側面も、負債であることを示している。
見知らぬ人からもらう煙草への礼の「”キノドク(すなわち、有害な感情)ですね”」という言葉。(ありがとうとかすみませんじゃないんだ。「気の毒ですね」って1990年代生まれには挨拶には聞こえないけれども。)
「ありがとう」は、容易ならぬこと=稀有な恩恵である、ということだし、「すみません」も恩の提供に対する申し訳なさの表現だ。

漱石の『坊っちゃん』では、友人から氷水を奢られた後、仲が悪くなったときに代金を突き返してその恩を払拭する。仲の悪さに決着をつけるときに、恩を受けていることが邪魔だからだ。
ちなみにアメリカ的にはそれは神経質過ぎるとされる様子。

些細な事柄についてのこのような神経の過敏さ、このような傷つきやすさは、アメリカでは、不良青年の記録や、神経病患者の病歴簿の中で見受けられるだけである。

恩を甘んじて受けるような関係性の場合は背負ってるのが幸せなもので、そうでない場合は返済したい気持ちになるようなものだということらしい。「贈与の歴史学」でもそんなことが書かれていた。


第6章 万分の一の恩返し

恩には報いる必要があるが、負債と捉え釣り合いを考慮するならば、本来無限に返済するものではない。
「日本人の義務ならびに反対義務一覧表」として恩の返済を、A義務、B-1世間に対する義理、B-2名に対する義理(名誉)に整理した。

義務は無条件的で無制限な報恩である。天皇に対する「忠」、親に対する「孝」など。
日本には、7世紀以降繰り返し中国の倫理説が取り入れられてきており、中国では、支配者は徳(ヂェヌ〔仁〕)(=benevolence〔慈善、博愛〕)を要請され、それに応えるかたちで家臣は忠を尽くす。
その意味で恩は取り引き的な関係の中にあったが、これが日本に流入した際、天皇制と相容れず(天皇に徳を要求しようとすることのおこがましさからなのか、天皇からの仁は既に十二分になされているものとみなされているからなのか?)倫理体系から抜け落ちた。

慈善事業に寄附の申し込みをしたり、犯罪人に慈悲を施したりすることは、なるほど感心な行為である。しかしながら、それはあくまでも奇特な事業である。すなわち、その行為がどうしてもあなたがせねばならなかった行為ではないことを意味する。
(略)
中国の体系の最も肝要な徳をすっかり解釈し直し、その地位を低下させてしまったが、その代わりに、「義務」を条件的なものにするようなものをなにひとつもってこなかったために、日本では孝行は、たとえそれが親の不徳や不正を見て見ぬふりをすることを意味する場合においても、履行せねばならない義務となった。

仁義を行うことは上位階層の人にとって徳として要求されない。
しかし忠義は尽くさなければならない。

第7章 「義理ほどつらいものはない」

義理は、不本意ながらも世間から不義理な者だとそしりを受けないために返すもの。
嫁入り、婿入りで一旦他家に入ったら、生家よりも「義理」の親を優先しなければならなかったりするようなこと。

権力者に背いてでも友を守ったり、自らの命を危険に晒してでも主君に尽くしたり、古い物語には義理の素晴らしさをうたうものはあるが、それは互いに愛し愛される直接的な関係があればこその話。武士といえば忠誠、みたいなのは幻想。

第8章 汚名をすすぐ

名に対する義理は、第6章で説明されたB-2のこと。
教師なら自分が知らなくても知っていることのように振舞わなければならない、実業家なら自分の事業が立ち行かずともそれをさとられないようにしなければいけない、という職業・役職に対してふさわしい行動が存在し、それが求められるもの。名誉のために〜を果たすというようなもの。

アメリカでは競争が肯定され、競争的状況の方が成果が高かった。日本では競争は否定され、競争的状況では成果が低く、昔の自分と競わせた方が成果がよかったという。これを、敗北や失敗によって恥をかくことを恐れることによって起こると説明していた。
元ネタの心理テストを知りたい。

以下、自分の実感があった部分。

現在の天皇の治世においても、ついうっかり自分の息子に「裕仁」という名を付けたために—日本では天皇の名はけっして口にされることがなかった—その子供とともに自殺した人があった。

知人から「名前に"仁"ってつけるって天皇みたいでねぇか」と笑われた、というエピソードを聞いたことがある。
相手にネタとして提示して一緒に笑えるという認識になる程度には"仁"という漢字を使うことの恐れ多さが前提とされているのだろう。
平成生まれの私にはない感覚だ。

第9章 人情の世界
欲の取り扱いについての西洋との違いについて。
善悪的に判断し、律することが求められる西洋に対し、肉欲を悪いものと捉えず、場合場合によってのふさわしい振る舞いが求められ、そうであるならそれで十分、という日本。

睡眠という娯楽についての記述の一部。

試験準備をする学生は、寝た方が試験に有利だという考えに拘束されることなく、夜昼ぶっ通しに勉強する。

全然笑えない。娯楽どころか合理性も犠牲にしていると言われている笑

飲酒についての記述でここはよくわからなかった。時代性なのか、酒の席の遊びの話なのか。

都会の酒宴の席では、人びとはお互いに相手の膝の上に坐ることを好む。

あまり重要さを感じない章だったが、かえってそれが異国からの目線では不思議に思うところであるのかもしれない。

第10章 徳のジレンマ
忠、孝、義理、仁、人情、それぞれの世界があり、それぞれは分かれている。
あちらを立てればこちらが立たずで、どこかの世界に申し訳が立たずに自死を選ぶ。
それは実際に起こっていたことであったし、多くの創作物の中でその葛藤が扱われていた。ハッピーエンドよりもその葛藤自体の方が重要なほど。

笑ってしまいたいところだが、現代にも誰も得しない申し訳なさを支払うような場面は相変わらずあるはずで何とも悲しい。

第11章 修養
カット。

第12章 子供は学ぶ
面白いけど

第13章 降伏後の日本人
カット。

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