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ネット小説の樹海を彷徨う

SNSに書き途中の小説や構想中の話を聞くのが苦手だ。これは自分の感覚の話であって『そういうのが嫌い』うんぬんの話ではない。物語を少しでも文章にした瞬間、言葉は風化してしまう。自分の中だけで溜め込んでいた物語の質や密度が薄くなってしまいそうな感覚があって、SNSに「今、こういう物語を書いています」と宣言するのが苦手なのだ。

商業作家ならいざ知らず、無名な自分が「今、こういう物語を書いています」と言ったところで誰が興味を持つのか。宣言することで満足してしまって、言葉の熱が逃げてしまうのがこわい。文字は熱い内に打て。とは言ったり言わなかったり。同じような感覚で、ネット小説のあらすじを読むのも苦手だ。

例えば、映画の予告は『その作品の良さを詰め込んだ部分』だ。その映像だけで判断する場合、予告で「面白くないな」と感じたら、たぶん、本編もあまり楽しめないだろう。という感覚と同じで、ネットに載っている試し読みを見たとする。そこで「面白くないな」と感じてしまったら、たぶん、本編もうまく飲み込めないと思ってしまう。

仮に友人がネット小説のあらすじを載せていたら? もし読んで「これは違う」と思ってしまったら? 勝手に期待して、勝手に幻滅する、勝手な行為だけはしたくない。人の、というより流通していない本を全然読まないのはそれが理由なのだろう。

以前、noteで『誰も小説を読んでくれない、誰からも感想をもらえない』ことについて発言をしたことがある。中身の良し悪しはともかく自分にしては多くの反応をいただいた。それに付随する話で『ネット小説は樹海のようなもの』の話をしたい。本題に入るまでが長かった。

冗談ではなくネット小説の投稿数は数万と存在している。そのような中で「あらすじを載せましたハイ読んでください」で実際に読んでもらえる人なんてほんの一握りだろう。だって「樹海の奥の奥の奥の奥の奥に物語を置きました。自力で探して読んでください」と言われたって、どうして無名の人の小説を必死に探さないといけないか。

もちろん、未知なる物語を求めて突き進む。という人がいるのは理解している。苦労して自分好みの小説を見つける感覚は、旧作の映画10本500円を適当に借りて、何度も見返してしまうほどの作品を見つけた感覚と似ている。まぁ、そんなことしたことがないから想像になるけど。

「樹海の奥の奥の奥の奥の奥に物語を置きました。でも私がガイドします。地面は均しておきました。灯りも用意してあります。楽しいレクリエーションもしましょう」なんて言われたら、自力で探せと言われるよりもそちらを選んでしまうだろう。

これを小説に例えるなら「あらすじを丁寧に書きました。行数や行間は見映えよくしました。おすすめはここです。他の人とも絡んで感想を送って交友関係を広げました」と、ここまでやっても読んでもらえるかは難しいけれど、少なくとも、何もやらずに「才能がないから」とか「感想がないのも感想」と諦めて、有名になれない自分に酔いたくはない。

ネット小説を読んでもらいたいのなら、感想がほしいのなら、無様に足掻くしかない。先月、次世代作家文芸賞に応募してきた。この手の公募には珍しくあらすじも書く必要があった。たぶん、あらすじに一番時間を割いた気がする。長々と書いたけれど、結局は「みんなあらすじを書くのがうまいね」という話だ。物語の本質を捉える力がほしい。

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改めまして、秋助です。主にnoteでは小説、脚本、ツイノベ、短歌、エッセイを記事にしています。同人音声やフリーゲームのシナリオ、オリジナル小説や脚本の執筆依頼はこちらでお願いします→https://profile.coconala.com/users/1646652