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「本物の坐禅(座禅)」は結跏趺坐?

本物の坐禅がしたい

以前坐禅会に参加していただいた方からこんなことを言われたことがありました。

「本物の坐禅がしたいんです」

最初これを聞いた時、どういうことだろうと思いました。

本物の坐禅?

素晴らしい老師のところで坐禅をするということなのか。
それとも悟りを得るということなのか。

どういうことなんだろうな〜と次の言葉を待ちます。

すると、「ちゃんと両足を組みたい」ということだったのです。

私は柔軟性を高める運動をいくつかお伝えしたのですが、「本物の坐禅」という言葉が引っかかり続けていました。

その中で気づいたのは、自分自身が生み出してきた一つの執われです。

坐禅の足の組み方は、結跏趺坐と半跏趺坐(+安楽座)

坐禅の伝統的な足の組み方は2種類あります。

1つ目は、結跏趺坐(けっかふざ)

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右足を左の腿の上に置き、左足は右の腿の上に置きます。
正直、最初にこれを見た時は「不可能だ」と思いましたね。
ちなみにヨガではこの組み方を「蓮華座(れんげざ)」と呼びます。

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もう1つは半跏趺坐(はんかふざ)。
これは片方の足を反対側の腿の上に置きます。
画像では左足を上に置いていますが、どちらでも構いません。

画像の引用は以下のサイトになっています。

また、この2つの足の組み方に加えて、最近は安楽座という、半跏趺坐で腿上に乗せていた足を床に下ろすやり方もあります。

「雲堂」という坐禅用のアプリがあって、ここで紹介されている坐禅のやり方の動画には、結跏趺坐・半跏趺坐・安楽座の3つが紹介されています。

結跏趺坐との格闘

この中で最も正式なものは結跏趺坐だと言われています。

半跏趺坐については、「結跏趺坐が組めない人はこれでも良い」という言い方がなされることも多く、坐禅会に来られた人のように「本物の坐禅」は結跏趺坐によって行うものという認識は強いものかもしれません。

私自身もそうでした。

私が最初に坐禅をしたのは中学1年生の時でしたが、「おじいちゃんみたいに身体が硬い」と言われていた私にとっては結跏趺坐はもちろん、半跏趺坐ですら何とか、本当に何とか組めるレベルでした。

大学を卒業する頃もその柔軟性にあまり変化はなく、そのまま修行道場に入ることになりました。

私自身が負けず嫌いなこともあり、「修行から帰ったのに結跏趺坐も組めないなんて情けない」と言われたらたまらないな、と思いました。

体の硬さをいつまでも言い訳にするわけにもいかず、結跏趺坐を練習するようになりました。

最初は5分耐えられたか分かりません。

周囲に見つからないように、そっと足を解いて残りの時間を過ごすということを何回も繰り返しました。

次第に結跏趺坐を組める時間が伸び、40分程度であれば何とか結跏趺坐を保つことができるように。

結跏趺坐から生まれる傲り

そうして工夫を重ねていく中で、1時間程度だったら結跏趺坐のままでいられるようになりました。
もちろんその日の体調、体の具合にもよるのですが。

正直、得意になっていました。

自分は結跏趺坐がこれだけ保てる。

他のお坊さんと一緒に坐禅をしていても、結跏趺坐で坐る自分に優越感を覚えました。

自分が結跏趺坐を組めない人よりも「良い坐禅」をしていて、自分は「エラい存在」なのだという傲りも生まれてきました。

「本物の坐禅がしたい」と言っていた参禅者の方のように、自分自身が「本物の坐禅」に執われていたことに気がつきました。


結跏趺坐が組めていなくとも本物の坐禅

道元という鎌倉時代の禅僧は次のように語っています。

仏道は、初発心(しょほっしん)のときも仏道なり、成正覚(じょうしょうがく)のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり
『正法眼蔵』「説心説性(せっしんせっしょう)」

これは「修行の始まりも仏道であり、悟りへの道も、悟りに至った後も、仏道という点ではどれも等しい」という意味になります。

修行の短い、長いということはあっても、その時その時行われる修行には差が無いということなんですね。

坐禅も同じはずです。

足の組み方、姿勢、心との向き合い方など、様々な要素が坐禅の中にはあり、「熟練度」という物差しで測ればそこに差が生じてしまう。

しかし、それをやってしまっては他の人と比較して「自分はできている」「できていない」ということになってしまうのです。

坐禅の要素の熟練度に差はあっても、「坐禅自体」に差は無いんですね。


もちろん、結跏趺坐を目指して身体の柔軟性を高めていくことは必要なことです。

ただ、それが今の坐禅を否定するものであってはいけない。

今の身体で行う坐禅も本物の坐禅。

結跏趺坐が行えるようになった後も本物の坐禅。

そして、いつか身体を壊してしまい、結跏趺坐が組めなくなったとしても、やはりそれも本物の坐禅なのです。


それぞれの時に卑屈にならず、また傲慢にもならずに歩みを止めない。

坐禅の修行とは、その時々の坐禅にも執われないところに真髄があるのかもしれません。


ここまでお読みいただきありがとうございました!
またお目にかかれますよう🙏


タイトル画像はフリー素材ぱくたそより。

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