![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44134057/rectangle_large_type_2_088fe91382a85e3c46b31366b725ce37.jpeg?width=1200)
厭世主義的な無常を超えて
ネガティブな無常
仏教用語として一番有名な言葉は何かと考えると、それはやはり「無常」ではないかと思います。平家物語の「諸行無常の響あり」というフレーズは多くの人が覚えていることでしょう。
平家物語にある「盛者必衰の理」という言葉も栄華を極めたものが結局は落ちぶれていくということを描いています。「無常」には人生のピークを迎えれば落ちていくというイメージがあるようです。
このイメージは桜についても言えるかもしれません。桜の散っていく様も無常の代名詞として使われ、人間の生になぞらえ、命の儚さに例えられることはもはや常套手段とも言えます。これもまた平家物語に出てくる「無常」と軌を一にしています。
このような無常の理解が別に仏教に反している訳ではありません。
仏教の経典として『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』というものがあります。正式名称はもっと長いのですが。この中にも「世は皆無常であり、会うものは必ず離れるものである」という一節が出てきます(原文:世皆無常会必有離)。
この人生が一時のもので、それがいつまでも続かないということ。無常の解釈の一つとしてはもっともなものです。
ただ、このような無常の解釈一本で進めていくと困ったことになります。「どうせ死ぬのだから人生には価値がない」という価値観につながっていってしまうのです。それは厭世主義(えんせいしゅぎ)と呼ばれる考えにもつながっていってしまいます。
厭世主義とは、「人生には価値がない」というよりももっとネガティブな捉え方で、「人生は不幸」のように考えていくことです。
どんなに良いことがあっても「どうせ老いていく。どうせ死んでいく。」
恋人ができても「どうせ別れがくる。どちらかが死ねば終わるし、それは間違いなく来る」
どんな成功をおさめても「この成功をおさめた自分という存在はいつまでも続かない」
無常を単なる儚さという観点から捉え、それを真理だと思い込むとこのような考えにも発展していってしまいます。それこそ予言の自己成就的に人生が不幸なものになってしまうでしょう。
ポジティブな無常
ただ、無常の持っている側面のネガティブなところばかりに注目するとそのようなネガティブな結果に陥っていってしまいます。
私が修行時代にお世話になっていたある老師はこんなことをおっしゃっていました。
「無常だからこそ人は変われる」
目が開けるような思いがしました。
無常にそんな意味もあったとは。
そもそも無常とは「全ては移ろいゆく」という意味です。そこにはネガティブなものだけではなく、ポジティブなものも当然含まれ、ネガティブでもポジティブでないものも含まれる。
成長していくことも、生涯のパートナーを得ることも、成功をおさめることも無常の景色の一つです。
無常とは単にピークから落ちていくようなものではなく、人生や物事の移ろい全てを指している言葉だと言えるでしょう。
無常をネガティブな意味に捉え、それを真理として鵜呑みにし、人生を不幸なものにしていくのは何の益も無いことですね。
無常が織りなす「奇跡」
また、無常な世の中で結局は死を迎えるという事実も、単にネガティブな捉え方で終わらせることに違和感があります。
神谷恵美子さんという方の本でこのような言葉があります。
七五〇年以上も前の日本の隠者は人生を河になぞらえ、人間とはその「よどみにうかぶうたかた」のようなものだと書いた。その気持ちもわからないではないが、人ひとり育つこと、生き抜くことの複雑さを思えば人生はまるで奇跡のようにも見えてきて、ただ「うたかた」と言い流してしまうことはためらわれてくる 『心の旅』p6
「うたかた」というのは水泡です。冒頭に言及したような、平家物語的な「儚さ」をうたったものだと言えるでしょう。これに対して神谷さんは人生は「まるで奇跡のよう」と表現しています。
私にはこの言葉が、人生には終わりがあるという単純な無常観よりも何歩も先をいっているものに思われます。人生における幾重にも重なってきた「移ろい」がその人を紡ぎだし、その人たらしめている。
無常という移り変わりの中で織り成された人生という作品を心から「美しい」という賛美です。
ネガティブな無常に対してポジティブな面もある。それはもちろんですが、移ろいを生きるからこそそれが奇跡であり、美しい。
これは勘違いしてはならないと思うのは、単純に人生が美しいという表面的なところで「奇跡」と言っているのではないだろう、ということです。人生における苦しみや嘆き、死別・離別など、ネガティブなものも見つめた上で「奇跡」と表現されている。
終わりに
ネガティブなだけが無常ではないが、ネガティブなものも間違いなく無常の見せる一つの景色。良いことが起きるのもまた無常の一つの景色。
この様々な景色を「奇跡」だと受け取っていく。
言葉で言うのは簡単です。ただ、無常というものを本当の意味で理解するためには、まだまだ人生を深く見つめなくてはならない。無常といって簡単に片付けてはいけない。その無常が持っている生々しさを、生々しさのままに見つめていく。その先にこの言葉の本当の意味が分かっていくのではないか。そんな気がしています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?