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猫と禅のお話「斬られ嫌われる猫さん」

 なんとなく思ったことや考えてきたことをnoteに上げてきたけれど、そろそろ坊さんらしいことも書いていこうかな、と思い始めた。とりあえず「猫と禅のお話」と題してみる。禅の本道的な議論とか、アカデミックさは薄めでいきたい。


 「猫とフクロウのお土産は世界中のどこでもある。なぜならどちらも人間に近い顔をしているから」そんな本当かどうか確かめようのない説を聞いたことがあるが、猫は確かに愛され、「ネコノミクス」という言葉があるように、年々その勢いはましているようだ。

 その一方で、仏教や禅の伝統の中では、必ずしも猫は歓迎されてきていない。涅槃図という仏教美術の中では猫が基本的にはいないことがその特徴とされていたりもする。十二支の物語とともに、猫ははぶられがちだ。

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 ちなみに涅槃図はこういうもの。ちなみにお釈迦さんの頭は北を向いていて、北枕もここからきている。画像は下記リンクより。
http://www.gyokusenzi.com/sanbukki/nehanz/nehanz.htm

 はぶられるだけならまだ良い。禅の語録の中には猫が真っ二つにされてしまう話も出てくる。『碧巌録(へきがんろく)』というテキストに収録されている、唐の時代の話だ。

ある時、修行僧たちが猫を取り合っていた*。それを見ていたお師匠さんが猫を取り上げ、こう言った。

「(真理を)言い得ることができたならば、斬らずにやろう」

修行僧は答えることができず、お師匠さんはそのまま猫を両断した。
*ここで「取り合う」とした元(原典)の言葉は「争」だ。この言葉には議論するというような意味もあるようなので、物理的に取り合うのではなく、猫を巡って何かの論争を繰り広げていたのかもしれない。ただ、その後に一言も言葉が出なかったと考えるとこの解釈では疑問が残る。

 あまりにも救いが無い話だ。後半は省略したが、猫が弔われたという話も特に出てこない。これが現実だったとしたら、中にはトラウマを抱えてしまうような修行僧も出たのではないだろうか…。

 ちなみにこのエピソードは絵にもされている。

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長谷川等伯「南泉斬猫図」
以下のサイトより転載
https://blog.goo.ne.jp/takemusu_001/e/e60eec97994766b53b4ac691b9489e2a

 もう一つ、猫が歓迎されない話が出る文献を紹介しておく。『宝慶記(ほうきょうき)』というテキストだ。場所は同じ中国だが、今度は時代が宋の時代になる。これは「猫真っ二つ」のように具体的なエピソードは書かれていない。言われているのは猫を飼うことについてだ。

虎の子、象の子など、および猪・犬や猫・狸などをかってはいけない。現在、諸方の住職たちが猫を飼うのはまことにもっていけないことである。愚か者がすることである。
(訳は大谷哲夫『道元「宝慶記」』p65を参考)

戒められるということは、実際に行われていたということだ。つまり虎の子や象の子も飼われていた、というのは驚かざるをえない。

それよりも猫を飼うのが「愚か者」とされていることが衝撃的だ。そこまで言う必要はないんじゃないか。

ちなみにこの『宝慶記』で主に教えを述べているのは如浄(にょじょう)という禅僧なのだが、その修行への姿勢がとてつもなくストイックだ。坐禅をする時間が惜しいから昔からの友人にも会わない、と公言するほどに。きっと猫に構っている暇があったら修行しろということなのだろう。



唐の時代には真っ二つにされ、宋の時代には飼い主を愚か者呼ばわりされてしまう。猫の扱いはなんだか不憫だ。

ただ、唐の『碧巌録』のエピソードでは、むしろ取り合うほど猫が好かれていたようにも読めるし、宋の『宝慶記』では色々な寺で猫が大事にされていることも分かる。

猫が邪険に扱われているのも、それだけ猫が人気を博していたからだとも言える。


猫好きには、いや猫好きでなくとも、猫の牧歌的な姿(寝る、食べる、寝る、寝るといった行動スタイル)を見ていると「もう少し気楽に生きて良いかな」と思わされるのではないだろうか。


禅の伝統が語る猫への忌避感は、人間が修行も放り出してまで猫に構いたくなる、そんな人の性としての猫愛の裏返しなのかもしれない。

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