(旧作)ミッション・テンパッシブル 〈5170字〉 光文社文庫Yomeba!第19回『ゲーム』優秀作
【おことわり】
2024年5月の文学フリマ東京38で発売した短編集『夜半舟』に収録されている『ミッション・テンパッシブル』は、旧作を大幅に改稿したものです。
本記事は2022年に執筆した旧作の『ミッション・テンパッシブル』であり、短編集に収録したものとは異なる内容です。
ご了承ください。
以下は2022年当時の記事となります。
――もう耐えられない。
私は真夜中のダイニングで、ひとり涙をこぼした。
ぐずぐずとエンドレスで泣き続ける娘をやっとのことで寝かしつけたと思ったら、呑気に飲み会へ行ったへべれけ夫のご帰還。
お願いだから静かにしてと言ってもお構いなしで、鼻歌まじりに家の中をどたばたと騒々しく歩き回り、挙句の果てには赤ら顔をにやけさせて寝ついた娘のほっぺたをむにむにとつまむ暴挙に出る。
当然目を覚ました娘の、非常ベルよろしく大音量を発する負のスパイラル。何とか宥めてようやく寝ついてくれた頃には、当の下手人は高鼾でとっくに夢の中だ。
「なんで私だけ……!」
電気もつけない真っ暗な部屋で、噛みしめた唇の端から嘆きとも恨みともつかない声が洩れる。
確かに望んで産んだ。
初めてその顔を見た時は、本当に嬉しくて幸せで涙がこぼれて止まらなかった。
――なのに、なぜ。
どうして泣くんだろう。どうして母乳が出ないんだろう。どうして寝てくれないんだろう。
どうして、どうして、どうして!
子供が産まれた後も、生活パターンに何の変化もない夫がへらりと笑う。
「マナはさあ、真面目すぎるんだよ。もっと肩の力抜いて、子育てを楽しみなよ」
思わず殺意が湧く。やってから言ってほしい。
ベッドに寝かせたとたん、背中スイッチが入って声を限りに泣き叫ばれたら。
後追いがすごくて、トイレすら落ち着いて行けなかったら。
せっかく作った離乳食を秒で投げられたら。
――それが毎日、続いたら。
常にその嵐の真っ只中にいる私は気の休まる暇すらなく、頭の中が真っ白になった状態で事に挑まねばならないのだ。平日は毎日のように飲んで帰り、休日は趣味だ何だといそいそ出かけるアンタに「もっと力を抜いて」なんて言われたくない。
私は決断を下した。
もはやこいつは役に立たない。私一人で、この子を育て上げるしかない。
だが私の気力も体力も、もはや限界に近い。私の実家は遠くて頼れないし、図々しくて口うるさい義母の手なんか死んでも借りたくない。
一晩中悩みぬいた私は、ふとソファの上にあった夫が読み散らかした新聞の広告欄に目を留めた。
『あなたの悩みは視点を変えれば解決する!――困難な状況を切り抜けるには』
“視点を変える”。なぜかその言葉が妙に私の心に響く。
その時私の中にある考えが閃いた。
――これはゲームだ。
そう、この忌まわしい生活をゲームだと思えばいいのだ。
あんなに可愛かった天使がこんなに私を苦しめるのは、きっと魔法かなんかでモンスターに変えられたからに違いない。私のミッションは、そのモンスターを元の天使の姿に戻してやることだ。
もうこじつけでも何でもいい。とにかくこの混乱から抜け出さなければ未来はない、と私は腹を括った。そうと決めたら作戦を立てなきゃならない。
――今日から私は勇者になるのだ。
朝日の差し込み始めたダイニングで、私は固くこぶしを握り締めた。
今日も朝から戦場のような一日が始まった。
例によって泣きわめく我が娘、いやモンスター……ああもう、どっちでもいい。この絶体絶命のピンチを切り抜けるにはどうすればいいのか。
「ハルちゃん、今日もよく泣くね~。おむつかなあ、おっぱいかなあ」
ぎりぎりの時間に寝惚け顔をぶら下げて起きてきた夫が、判ったような口をきく。
馬鹿め、そんなものはとっくの昔に挑戦済みだ。
自分は戦闘に参加すらしないくせに、口だけは一人前に役にも立たない技を押しつけてくる我が夫、アンタは街はずれの怪しい武器商人か。
後ろから蹴とばすようにしてしょぼい武器商人を送り出すと、フルスピードで食器を洗い、モンスターを捕らえて公園に出かけてみる。
だがいざ着いてみると、既に何人かのママ友が井戸端会議に花を咲かせているではないか。
私はこのママ友というのが大の苦手だ。
もちろんいい人もいるのだろうが、どうも私のまわりは外面だけ良くて、陰で何かと悪口や噂話に興じるタイプが多い。こういう人たちとうっかりパーティーを組むと、きっとここぞという時に裏切られたりするのだ。
私の中の警戒ゲージが跳ね上がる。
「あらあ、ハルちゃんママ!お散歩?」
「はい。この子なかなかお昼寝しないので」
「へえ、そうなの。あのね、そういう時はね……」
出た、『私のアドバイスを聞き入れろ』アタック。これに打ち勝てるのは、あの必殺技しかない。
「へええ、そうなんですか。知らなかったです。帰ったらさっそく試してみますね」
ママ友は満足そうに頷いた――クリア!どうやらご機嫌を損ねずに済んだようだ。
我ながら上手く躱したと自分を褒めながら家に帰る。珍しくモンスターはすやすやとお昼寝に入ってくれた。ああ、この瞬間だけは天使に戻る。
しみじみとその寝顔に見入っていると、突如インターホンが鳴った。間髪入れずに、ガンガンガンと岩を叩き割るような音がする。そして洞窟から響きわたる不気味な唸り声。
「マナさーん!いないの?いるんでしょう?開けてちょうだーい!!!」
私はさっと青ざめた。
――ついにラスボス登場か。
「あのお義母さん、ハルはさっき寝ついたばかりで……」
ドアをうっすら開けて切り出すが、この程度の反撃ではかすり傷すら負わせられない。
「何言ってるのよ!いいじゃない、起きたらまた寝かせれば。ちゃんと夜に寝れば大丈夫よ!」
その夜がなかなか寝ないのだ。そしてアンタの息子は何の役にも立たないどころか、妨害さえしてくるのだぞ。さてはあの武器商人、こいつと裏で繋がってる悪魔の手先か。
さすがにラスボスの攻撃は凄まじい。
文字どおり寝た子を起こし、口移し攻撃で凶悪なミュータンス菌を放ち、その合間にも説教サーベルを振り回す手練れぶり。どうやら私はまだ修行不足のようだ。
満身創痍で何とかラスボスを締め出したあと、一人こっそり買いだめておいたコンビニのスイーツをかじる。
ああ、これが今の私の唯一の回復魔法……。
それから長い時が立ち、小さかった我が子は、いつの間にか社会に羽ばたいていった。
もちろんそれまでには、数え切れないぐらいの衝突があった。
魔の二歳児イヤイヤ期、幼稚園行かないギャン泣き攻撃。小学校の固く分厚い壁に、中学・高校のブリザードのような反抗期。
ひとつクリアしたと思うと、よりアップグレードした危機が襲ってくる日々。それでも私は、右往左往しながらも何とか技を繰り出して闘った。
時に傷つき、もうリセットしかないと絶望することもあったが、常に怯まず真正面からモンスターのアタックを受けて立ったことだけは褒められていいだろう。
「お母さん、産んでくれてありがとう。私、お母さんの娘でよかった」
結婚式当日、娘がその眼に涙を浮かべて言った。
――ミッション・コンプリート。
私は、見事あの泣きわめくモンスターを天使に戻すことに成功したのだ。
「ああ、ハルもついにいなくなっちゃったか。何だか心にぽっかり穴が開いた気分だ。子供が巣立つって嬉しいことだけど、親としては複雑だよな」
娘が嫁いで妙にがらんとした家で、相変わらずしょうもない品揃えしかない武器商人が感極まったような口調で呟いた。私は聞こえないフリをして、無言でお茶をすする。
そう、問題はこれからなのだ。娘を無事に育て上げるミッションをクリアした今、これから私はどうすればいいのだろう。
「マナもさ、気をつけなきゃいけないよね。ほら、子供が巣立つと急に気が抜けちゃうって……『空の巣症候群』だったっけ?女のヒトってそういうの多いんでしょう?特にマナは子供べったりだったしさ。それにもうどっぷり更年期だもんね」
またも殺意が湧く。
アンタこそ定年間近のくせに。仕事にかまけて一切の家事・育児から逃避し、家庭を蔑ろにした挙句、退職後にベタベタと妻にへばりつく濡れ落ち葉になる男のなんと多いことか。
それにどうやら、男にも更年期障害があるのを知らないとみえる。
私は新たな決意を固めた。
廃業近い武器商人などにかまけている暇はない。私はこれから自分らしく生きる道を探すのだ。妻でもなく母でもない、一人の人間としての人生を全うするために。
そうして第二ステージの幕が上がった。
意気揚々と次なるミッションをぶち上げた私だったが、いざトライしてみると、これがまた苦難の連続だった。
私らしくって何だろう。自分らしく生きるって、どういうことだろう。
様々なカルチャーセンターに通っても、友達とランチをしてみても、何だかこれじゃない感が半端ない。何か仕事でもと思っても、子供が産まれて以来、長年現場を離れていたブランクは大きいし、悔しいが年齢相応の不定愁訴もある。
ラスボス改め意地悪な妖婆の介護という袋小路に突き当たったかと思えば、仕事という名の楯を失った武器商人が「これからは夫婦で助け合って生きていこう」などとのたまう。家事どころか自分のパンツのありかさえ判らない男と、何を助け合えるというのだろう。
子育てと違って、先の明るくない未来に向かって力を注ぐのは、はっきり言って虚しさだけが募る。中年期の迷路は、思ったよりも手強かった。
「じゃあマナさん、また来週ね」
「そうね、楽しみにしてるわ」
私はゆったりと穏やかに微笑んで、手を振った。
毎週月曜と木曜は、グラウンドゴルフの練習日だ。年を取って思うように体も動かなくなったが、それでもこの日が待ち遠しい。一緒にスティックを振る仲間も、みんな優しくていい人たちばかりだ。
この年になると、もう勝ち負けなどどうだっていい。もちろん大会でいい成績を収めた日は嬉しくはなるけれど、それよりみんなで笑って元気にプレイできることが、何よりの楽しみだ。気の合う仲間が緑豊かな公園に集まってゲームに興じ、食べては笑い、喋っては笑う。
ああ、こんなに穏やかに過ごせるなんて、あの頃は思いもしなかった……。
「――長い間、ご苦労だったな。今はどんな気持ちだ?」
「本当に、本当に大変でした。自分でもよく生き抜いたなと思います」
神様はふむふむと頷いた。
「そうか、それは苦労したな。さて次はどうする?今世の努力を鑑みて、そなたに相応しい来世を用意してやった。いずれでも好きな人生を選ぶがよい」
神様が何枚かの伏せたカードを私に差し出した。
「これはどんな……?」
「これこれ、今から中身を言う訳にはいかぬ。心配するな、悪い人生ではないぞ」
私はしばらくじっとカードを見つめていたが、やがてゆっくり首を振った。
「いえ、結構です。もうあんな大変な目には遭いたくない。一度きりで充分です」
神様は困ったように私の顔を覗き込んだ。
「確かに大変だったであろう。だがこの世に生を受け、育ち、また新たな命を生み育て……それはさぞかし苦労の多い道のりだったかもしれぬが、そこにまた喜びも幸せもあったのではないか?人生そのものが時にゲームに例えられるのはそのせいじゃ。様々な苦労の末、ついにはやり遂げる充実感が……」
私は敢然と顔を上げた。神様相手ではあるが、やはり言いたいことは言っておきたい。
「理屈はそうかもしれません。でも私は、とにかく次々現れるトラブルに立ち向かうのに必死だったのです。それこそ果てしないゲームをひとつひとつクリアするが如くに」
神様は私の勢いに吞まれたように、黙ったまま目をぱちくりさせた。
「本物のゲームなら、それも楽しかったかもしれません。でもリアルな人生では、それは本当に辛かったのです。せいぜい最後ぐらいでした、多少なりとも心穏やかに暮らせたのは。どうしても生まれ変わらなければならないのなら、せめて……せめて穏やかに生きたい」
神様はじっと考え込むと、やがて手にしたカードを静かにしまった。
「――なるほど、よく判った。ではその労をねぎらって、来世はそなたに最高の暮らしを送ろう。楽しみにしているがよい。ではひとまずここで別れるとしよう。さらばじゃ」
その言葉と共に、私は白い霧に飲み込まれるように落ちていった。
「ママ!見て、お庭に猫がいる!」
「あら、ほんと……まあ、まだ仔猫じゃないの。可哀想に、捨てられて迷子になっちゃったのかしらね」
「ねえ、このままだと死んじゃうよ。サキ、この猫飼いたい!」
「そうねえ、それはパパと相談しないと……でもとにかく、まず体を温めなきゃね」
「ママ、ミルクもあげなきゃ。サキがやる!」
優しそうな母親はサキという名前の娘の頭を撫でると、私を両手で包み込むようにそっとすくい上げた。
――私?私ってだれ?
「ねえママ、この子何ていうお名前?」
「いやだ、サキちゃん。捨て猫だもの、名前はないのよ」
そうか、私は猫なのだ。名前はまだない。
――まずは名前を得ること。それが最初のミッションじゃ。あとはうんと可愛がってもらうがよい。
遠くで誰かの声がする。
私は温かく心地よい手の中でもぞもぞと体を動かして、みいと小さくひと鳴きした。
【あとがき】
ゲームというものをまったくやらない私にとって、このお題は拷問にも等しいミッションでした(笑)
一度書いて、後半及びオチが決まらず放置していたものの、締切が迫っても何のネタも浮かばず、再び蔵から引っ張り出して書いた作品です。
その弱点が露骨に出ていて恥ずかしい限りです……。
前回のYomeba!『桃の花咲くころに』はかなり抒情的に書いたので、今度はシャープに行ってみたいと思って書きました。
シャープさは自分にはないカラーなので、他の方々の作品に学びつつ、自分の個性を出していけたらなあと思っています。
いつも、または初めて読んで下さった皆様に心から感謝致します。
以下に光文社様の講評もupさせて頂きました。
本作と併せて何らかのご参考にして頂ければ嬉しく思います。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
お読み下さってありがとうございます。 よろしければサポート頂けると、とても励みになります! 頂いたサポートは、書籍購入費として大切に使わせて頂きます。