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【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第5章 ③ 地震

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岡崎清松は、本堂で毎日の朝の勤めを上げると、ふうっと大きく息をついた。
岡崎が父からこの寺を継いで、早や8年になる。本来ならばもっと後の予定だったのだが、父が病に倒れたためにそうせざるを得なかったのだ。

今や寺の役割は減少の一途を辿っている。幼い頃に父から聞かされていたような、葬式と言えばまず僧侶を呼ぶような時代は、とうの昔に過ぎ去ってしまった。今はごく一部の高齢者や、潤沢な経済力を持つ家庭の何割かが形式的に依頼してくるに過ぎない。反面、昔に較べてお布施の額も跳ね上がっている。そうでもしなければ僧侶も生活できないし、それなりに歴史のある寺社建築物を維持することができないからだ。
この時代における宗教行為は、もはや金持ちの道楽とほぼ同義だった。

――そう、あの娘の家のように。

岡崎は、ふと鈴村結依の顔を思い浮かべた。たとえ宗教の色合いは薄れても、親子の情はそう簡単に薄まるわけではない。結依の亡き母を想う心こそ、仏の教えに基づいた無私の愛の形のひとつだろう。だが宗教は時に荒ぶる一面も見せる。結依の想いの強さは、そのまま岡崎の危惧となって心に引っ掛かったままだった。
あまり無茶をせねばよいのだが、と岡崎が思ったその時だった。
――床が、動いた。
ぐおう、と地鳴りが響いた直後、カタカタと襖や窓ガラスが鳴り始めた。

「地震か……!」

岡崎は素早く椅子から立ち上がると、経文机の上の花瓶を手で押さえた。細かい飾りものの多い寺では、地震は予期せぬ危険を生む。建物は丈夫だが、立てていたロウソクや線香などが倒れると、あっという間に火災のリスクに見舞われる。何しろ建物全体がほぼ木材でできているのだ。

幸い揺れはすぐに収まった。地鳴りこそ大きかったが、実際の揺れはさほどでもなかったようだ。震度2というあたりだろうか。
岡崎はほっと胸を撫でおろすと、細かな被害がないか寺の中を見回り始めた。

「おや、お位牌が……」

本堂の裏手にある、大きなガラスウィンドウの向こうにずらりと並んだ檀家の位牌の中で、一つだけ倒れているものがある。幸い他は大丈夫だったようだ。これが全部倒れると、不謹慎だがまるでドミノ倒しの牌を並べ直すかのような、極めて煩雑な手間がかかるのだ。
岡崎は鍵を取り出すと、ウィンドウを静かに開けて手を伸ばした。倒れた拍子に中へ収められた竹札が、一枚だけ勢いよくばらりと外へ飛び出してしまっている。

「いかんいかん、仏様を驚かせてしまっては……」

そっと竹札を拾った岡崎は、思わずぎょっとした。その札は『玲光院日泉信女』――あの娘の母親、鈴村佐和子のものだった。ついさっき、ちょうど結依や鈴村家のことを思い出していた岡崎は、妙な偶然に苦笑いを浮かべた。

「よりにもよってあの家の位牌だけが倒れるとは……しかも沙和子さんの札だけが……いや……」

岡崎は竹札を手にしたまま、しばしその場に佇んでいた。

――考えすぎだ。

地震の揺れ方など気まぐれなものだ。建物の構造や物の置き方でどうとでも変化する。岡崎の頭に、様々な思考が目まぐるしく浮かんだ。
寺に来た沙和子の悲痛な表情。葬儀の時に晃雄が見せた尊大な物言い。そして再び寺に来た娘の結依は、明確な意思の強さは父親譲りのようだが、情の深さと流す涙の清廉さは母親の沙和子とよく似ていた。

顔を上げた岡崎は、手早く位牌を戻してウィンドウに鍵をかけると、足早に母屋へと戻っていった。


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