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【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第5章 ② 絶景

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どれぐらい走ったのか、結依はようやく足を止めると、膝に手をついて肩で大きく息をした。呼吸よりも動悸が収まらない。ついさっき見た自分の父だとは到底思えない変貌ぶりに、結依はぶるりと身を震わせた。

『結依ちゃん、大丈夫? 怪我なかった?』

手にしたブイホが、ふわりと純江の姿を映し出す。

「大丈夫です。ありがとうございました……伯母さんの言うとおり、万が一の時のために、電話で繋がっててもらってよかったです」

結依が実家に乗り込んで晃雄と交渉すると知った純江が、リアルタイムであらかじめ電話を繋げておくことを頑強に主張したのだ。

『あんまりこんなこと言いたくないけど、世の中は本当に何があるか判らないから。結依ちゃんに何かあったら、それこそ沙和子に申し訳が立たないからね。その場にはいられなくても、万が一の時に通報するぐらいはできるし』

純江の言葉に滲む強い説得力に、さしもの結依も折れた。だが実際には、それが功を奏したことになる。
ようやく結依が落ち着きかけたのを見計らって、純江が困惑したように口を開いた。

『それにしても本当に久しぶりに晃雄さんの顔を見たけど、ずいぶん印象が変わってたわね。歳を取ったっていうのは抜きにしても』

純江の方からはこちらが見られるように設定してあったから、一部始終を見届けたはずだ。手の届かない電話の向こうで、純江もさぞかし肝が冷えたに違いない。

「それは私も驚きました。だって前回会ったのは四十九日の時ですから、まだ二か月半ぐらいしか経ってないんですよ。その時は別におかしなことはなかったんです。せいぜいちょっとやつれたかな、ぐらいで。なのにあんなに髭がぼうぼうになって……」

「妻を亡くしたショックっていうのはあるにしても、ちょっと極端すぎるわね。元々はきちんとしていらした方でしょう」

不審そうな純江の言葉に、結依も困惑しながら頷いた。

「何だか家も荒れてたみたいだし……なんで家事代行サービス断っちゃったんだろう。そんなことしたら、すぐ家の中が汚くなるに決まってるのに……」

『だから余計にあなたを家に入れたくなかったのかもしれないわね。ご自分やお家の様子を知られたくなくて。でもそんな状況で大樹くんが出ていったっていうのにも驚いたわ』

「そうですね。兄は何て言うか、父とは別の意味で面倒が嫌いな人なんで……飛んできた火の粉振り払うどころか、一目散に逃げちゃうような人だから」

純江はおかしそうに噴き出したが、すぐに声を引き締めた。

『ごめんなさい、結依ちゃんが大変な目に遭ったばかりなのに』

「いえ。たぶん兄は、だんだん父の様子がおかしくなって、家の中が荒れてくことに危機感を持ったんだと思います。でも自分であれこれ手配するより、家を出た方が早いと思ったのかも。今までなら父が怖くて逆らえなかったけど、その父が唐突に退職したことで、一気に手のひら返したっていうか。ある意味そういうところは、あの二人ってすごくよく似てるから」

純江は呆れ半分、苦笑半分に答えた。

『なるほどね。つまるところ、もしもの時の連絡先にあなたを指定した沙和子の選択は大正解だったということね』

「でも、これでもう父の許可を得ることは、ほぼ不可能になりました」

『それはそうね。でもいいのよ、結依ちゃん。確かに沙和子の気持ちも大事だけど、何よりもまず生きてる人が大事。結依ちゃんの身に何かあったら、本当に一大事よ。失礼だけどあの晃雄さんの様子を見る限りでは、ちょっと真剣に注意した方がよさそうだわ。お願い、無理しないで。私も沙和子も、あなたが危ない目に遭うことを望んではいない。それだけは確信を持って言えるわ』

「――純江伯母さん」

結依はバーチャルの純江に向かってゆっくり訊ねた。

「伯母さんは今も富山にいらっしゃるんですよね。富山のどこなんですか?」

『え?』

「私、あんまり地理知らないですけど、母は富山のどのあたりに住んでたのかな、どんな景色を見て育ったのかなって思って」

純江はしばらく黙って佇んでいたが、やがて自分のブイホを取り出すとゆっくり顔のあたりにかざした。

『――見て』

純江の姿が消えたかと思うと、結依の目の前に紺碧の海がずわりと広がった。その向こうにやはり蒼い山並みがうっすらと霞んで見える。

「うわあ……! すごい、海と山が両方見えるんですね。これが今純江さんのいるところですか?」

『そうよ。海は富山湾で、その向こうに立山連峰が見えるの。冬だともっと綺麗に見えるんだけどね。それはそれは見事なものよ。ぜひ一度結依ちゃんにも見せてあげたいわ――この氷見の絶景を』

そういう純江の声はかすかに潤んでいた。

「氷見……お母さんは富山の氷見市に住んでたんですね」

『そう。沙和子は火事のあとから大学進学までだから、ざっと十年ぐらいかしらね。生まれは東京だから本当の故郷とは言えないかもしれないけれど、私たちはこの街にずいぶん救われたの。氷見の強くて美しい海と山にどれだけ励まされたか判らない。子供の頃は、よく二人で一緒に海で泳いだものよ。ああ見えてあの子は泳ぎが得意だったの。私も水泳だけはあの子に勝てなかったわね』

再び姿を現した純江に向かって、結依は黙って頷いてみせた。
もはや迷いはなかった。


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