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【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第5章 ① 変貌

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純江の電話から十日後、結依は久しぶりに実家を訪れた。
いささか威圧感のある門をくぐり、玄関脇のインターフォンを押す。だが何の応答もない。

「あれ、おかしいな……留守かなあ」

結依は間を置いて、何度もインターフォンを押してみた。いちおう鍵は持っているが、家を出た身としてはやはり遠慮もある。日曜だから父も兄も在宅の可能性が高いと思ったのだが、家の中からはまったく反応がない。

ここに来る前に、結依はあらかじめ父へ電話をかけてみた。いきなり散骨の話を持ち出すのは気が引けるので、何か会話の糸口になるようなものをと考えたところ、施設へ入れたという祖母のその後について、何の連絡も受けてないことを思い出したのだ。
支度に不足があった時のフォローを頼んできたわりには無責任の極みだが、この場合はむしろ好都合かと結依はほくそ笑んだ。
だが何度かけても繋がらず返信もないので、仕方なく直接自宅まで出向いてみたのだ。

ところが電話同様、自宅もまったくの無反応だった。見慣れたはずの実家が、何やら妙によそよそしく見える。建物が変わったわけでもないのに、どこか自分の知らない雰囲気が漂っているようで、結依はどうにも落ち着かなかった。
無言の応答に業を煮やした結依は、仕方なくブイホを玄関の引き戸にかざした。見かけは純和風の造りだが、仕組みは完全に現代のものなのだ。
だが鍵は沈黙を保ったまま、開錠される気配もない。

「鍵が開かない?」

何度試しても引き戸の鍵は開くことがない。諦めた結依が再びインターフォンを何度も鳴らし始めると、手の中のブイホが唐突に振動した。父だ。結依は叫ぶように応答した。

「もしもし、お父さん!? 今どこにいるの? 私、今家の前にいるんだけど、鍵が……」
『知ってる。何度もしつこくインターフォンを鳴らすな。うるさいぞ』
「は?」

結依は怒りを通り越して、ぽかんと口を開けた。

「な、何言ってんのよ。いるんなら開けてくれればいいでしょう。だからこっちだって何度も鳴らすんじゃない。そもそもブイホで鍵が開かないんだって。何かおかしいんじゃ……」

『何もおかしくない。鍵は変えた』

「鍵を変えた!?」

『そうだ。もう家を出たおまえに勝手に入られたくないんでな。まして人に逆らってばかりで、勝手な主張ばかりするような奴にはなおのことだ』

あまりに理不尽な言葉に理解が追いつかず、結依はしばし呆然とした。だがこうまで言われては、結依とて穏便に済ませるつもりもない。こちらも伊達に何年も晃雄の娘でいるわけではないのだ。
結依は一呼吸おくと、できるだけ冷静な声を出すよう努めた。

「そっちがそのつもりならいいよ。じゃあ、私も手加減しないから」
『何だと? どういう意味だ』

結依は父の真似をするように、ふんと鼻で嗤った。

「実の娘が母亡きあとの実家に来てみたら、鍵は開かない。応答もない。家の中で何かあったのかもと思って、動転して大きな声出しちゃうかもしれない。ドアを叩きまくって。『ここを開けて、どうしたのお父さん、何かあったの!?』ってね」

体面や世間体を異常なまでに気にする父のことだ。良からぬ騒ぎで近所の耳目を集めるような真似は何より避けたいはずだった。電話口の沈黙が何よりそれを物語っている。結依はダメ押しするように言葉を続けた。

「私の声の大きさは知ってるはずだよね、お父さん。やってみせようか? こんな閑静な住宅街だもん、きっと近所の人が聞きつけて助けに……」

そこまで言いかけたところで、唐突に玄関の引き戸が内側から乱暴な音を立てて開けられた。
思わずびくりと後ろに飛び退った結依は、そこに立っている父の姿を見るなり息を呑んだ。

「おと……ちょ……どうした……」

晃雄の姿は少し見ない間に、目を疑うほど変貌していた。いつも整髪料できっちりと固められていた髪は明らかに伸びすぎて、ろくに櫛も入れられていない。髭も週単位であたっていないことが明白だ。着ている服はよれよれで、洗濯もしないで着続けているのか、かすかに異臭が漂っている。
かつての父の、風紀委員がそのまま大人になったかのような姿とはまるで別人のようだった。

「入れ。ただし玄関までだ」

晃雄はいかにも面倒くさそうに体を後ろに引くと、自分は三和土の上に戻った。よく見ると靴も履かず素足で降り立ったようだ。結依は言われるがままに中へ入ると、恐る恐る後ろ手に引き戸を締める。

「まったく本当にうるさい奴だな、おまえは。何の用で来た」

見た目だけでなく、口調も明らかに粗雑で刺々しい。父の予想外の変わりように気圧されたのか、結依は珍しく口ごもった。

「用って、あの……それよりお父さん、その格好はいったい……仕事もそのままで行ってるの?」
「辞めた」

結依は仰天して目を見開いた。確かに年明けの1月で定年だとは聞いている。だが花の経産省OBのことだから、当然ご立派な天下り先も用意されているはずだ。生え抜きの幹部職員でいられなくなるのは無念かもしれないが、別天地で威勢を振るう機会をこの父が逃すはずもない。
晃雄はそんな結依の顔を見てにやりと嗤った。

「なんだ、意外そうだな。ふん、俺も本来は定石どおり次のポストを用意してもらうつもりだったが……正直、面倒になってな」
「面倒?」

父が仕事を面倒に思うなど、まして自らただびとの地位に甘んじる選択をするなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだった。

「そうだ。どうせ正月過ぎれば定年だ。ちょっとぐらい早く辞めたところで、今さら大した差はない。面倒と言えば沙和子が死んで以来、面倒事ばかりが続くんでほとほと困ってるんだ。家の中は片付かない、ばあさんはどんどんボケてく、大樹はぼんやりして役に立たん上に、おまえはキンキン騒ぎ立てるしな」

「でもお祖母ちゃんは施設に入ってもらったじゃない。そっちはどうしたの? 家事代行サービスも頼むって言ってたでしょう?」

「――だからそれが全部面倒になったんだ。判らん奴だな」

これまでも父親とは意見が噛み合わないことばかりだった。だが今度ばかりは、まったく父の考えていることが判らない。結依はもどかしさに足踏みしそうになりながら、ひとつずつ確認するように訊ねた。

「とにかくお祖母ちゃんは例の施設にいるんだよね?」
「さあな。死んだって連絡はないから、たぶんいるんだろう」

晃雄の投げやりな口調に、結依は唖然として言葉を失った。つまりまったく様子を見に行っていないということか。まだ預けてから二か月経ったかどうかというぐらいなのに、もはや実の母親に対する関心すらないようだった。

結依は玄関から注意深く家の中の様子を窺った。家事代行サービスが機能していないことは、入ってすぐに判った。広い家とはいえ、ろくにゴミ処理もせず換気も怠っていれば、玄関先までうっすら異臭が漂うのも道理だった。プロのサービスが入っていれば、少なくともここまで露骨には荒れないはずだ。
結依はこの家に着いた時の違和感に合点がいった。何となく家全体が薄汚れたように見えたのだ。植栽は伸びているし、玄関の敷石の上にはゴミがあちこちに落ちている。母の沙和子が生きている時は絶対になかったことだ。そもそも晃雄自体がそんな不手際を許すわけがなかった。

「お兄ちゃんはどうしたの?」

晃雄は嫌な嗤いを浮かべた。

「大樹か? なんかあいつも、最近はいろいろうるさく言ってくるようになってな。俺が仕事を辞めたら、まるでそれを待ってたように家を出てったよ。ついこの間のことさ。まあ俺としちゃ、家の中におまえが二人いるみたいでうるさくて叶わんから、ちょうど良かったが」

この状況にもかかわらず、兄のあまりに露骨な行動に結依は思わず苦笑した。経産省を退職した父など、もう怖くもないということか。少なくとも兄は、この惨状を片づける労力を払う価値はないと判断したのだろう。役人以上に日和見で保身の強い兄の性格ならやりそうなことだった。

「――それでおまえは何しに来たんだ。用件だけは聞いてやるから、話したらさっさと帰れ。もっともどうせろくな話でもなさそうだが」

これまでの父にない乱暴な物言いに、結依は背筋にひとすじの冷や汗が流れるのを感じた。今までも父はすべてにおいて高圧的で、支配欲の強い人間ではあったが、こういう粗暴な態度を取ることは一度もなかった。妻は元より、子供である結依や大樹にも、少なくとも言葉遣いだけは丁寧だったはずだ。例外と言えば、母が亡くなった時の病院での騒ぎはあったが。
異様な雰囲気に呑み込まれそうになりつつも、結依は恐る恐る口を開いた。

「あの……お母さんの遺骨を……」
「沙和子の遺骨?」

晃雄は露骨に舌打ちを洩らした。

「まだそんなことを言ってるのか。もう納骨したって言っただろう」
「それは判ってる。でも今からでも散骨を……」
「まだ言うかっ!」

途端に凄まじい音が響いて、結依はびくりと身を竦めた。晃雄が傍らに置いてあった客用スリッパを、結依の背後の引き戸に向けて思い切り投げつけたのだ。純和風の引き戸は衝撃に弱い。まるでガラスが割れたかのような音量に、結依の背筋は凍りついた。
これまで絶対に物へ当たるような真似をしたことのない父が……まさか母を亡くして、本当に精神に異常を来したのではという考えが頭を掠めた途端、再び空気を震わせるような大声が玄関に響いた。

「結依ちゃん、逃げて! 逃げるのよ! 早くっ!!」

血走った目を見開いた晃雄が一瞬、立ち竦む。我に返った結依は、急いで踵を返すと震える手で引き戸をこじ開け、転がるように外へ走り出ていった。


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