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【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第5章 ⑤ 暴挙

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「きゃっ!」

尻もちをつく形で後ろに倒れ込んだ結依は、敷石にへたり込んだまま仰ぎ見た。そのすぐ脇から冷然と自分を見下ろしているのは、予想どおり父の晃雄だった。

「お父さん……何でここに……」

結依の途切れ途切れの声に、晃雄はふんと冷笑を投げて寄こした。

「もう仕事もなくなったんでな。たまに来てやることにしてるんだ。もっとも俺が来るのは、いつももう少し早い時間だがな」

そのわりには草刈りもせず、花ひとつ供えていない。早い時間に来るのは人目につきたくないからだろう。この前ほどではないが、晃雄のいで立ちはとても以前の几帳面すぎる外観とは程遠かった。

「だがおまえがこの前妙なことを口走っていたから、あれからは注意して毎日来るようにしてたんだ。今朝も帰ろうかと思ったら、反対側の石段をおまえが上ってくるのが見えた。それでその辺の墓石の陰から見ていたら、案の定だ。こんな泥棒まがいの奴が鈴村家の娘とは、恥ずかしくて世間に顔向けできん」

晃雄は背後の口が開いた納骨棺に、ちらりと目をやった。

「――俺に黙って、沙和子の遺骨を取り出すつもりだったんだな。家に置いておけばおまえが盗りにくるかもしれんと思って墓へ入れたのに、ここまで浅ましい真似をするとはな」

完全に見通されていた悔しさに、結依は唇を嚙みしめた。

「そうよ。だってもう、お父さんには話も通じないもの。とにかくお母さんをこのままにしておけない。全部聞いたわ。火事のことも、お父さんがお母さんの実家と接するのを邪魔してたこともね。」
途端に晃雄の顔が訝しげに歪んだ。

「全部聞いただと? 誰からだ」

「誰だっていいでしょ。どっちにしろ、もう全部知っちゃったんだから。聞いた以上は、なおさらお母さんをここに置いとけないわ。私が連れて帰る」

そう言いながら立ち上がろうとした結依の肩を、晃雄が冷酷に突き飛ばす。
立った相手に対して、自分が低い位置にあるのは分が悪い。結依は再び無様に倒れ込んだ。今度は勢いがついて敷石から砂利まで体がスライドする。硬い御影石で肘と腰を強打した結依は、思わず呻き声を上げた。

「何するの……邪魔しないでよ!」
「邪魔はおまえだ。ちょろちょろと目障りな真似ばかりしやがって」

頬に泥をつけたまま、地面に這いつくばる娘を見下ろす晃雄の目は血走り、じっとりと脂の浮いた顔は赤黒く濁っている。人がこれほど豹変するのを目の当たりにして、結依は背筋が寒くなる思いがした。だがここで引き下がるわけにはいかない。結依は震える手で額に落ちた前髪を払った。

「邪魔? どういうことよ。火葬はお父さんの思うとおりだったでしょ。じゃあせめて遺骨ぐらい、お母さんの好きにさせてあげてよ。富山の海へ還してあげて」

「沙和子を富山の海に? おまえ正気か、結依」

晃雄はぬらりと口角を上げた。その歪み切った表情は、もはや結依の知っている父の顔ではない。その口から名前を呼ばれただけでぞっとして、体が硬直したように動かなかった。

「遺骨だけでも海へ還すと言いたいのか。馬鹿め、そんなふざけた真似をさせるわけがないだろう」

「どうしてそこまで固執するの。もうお母さんはいないんだよ! せめて最期ぐらい、お母さんの望みを叶えてあげたらどうなの! 夫婦なんでしょ! お母さんが何を望んでいたのか、お父さんは知ってたはずじゃない!」

晃雄は耳障りな笑い声を上げた。

「沙和子の望み? ああ、知っていたさ。だが沙和子は判っていなかったんだ。水火葬なんて貧乏人のやるものだってことをな。この俺の妻がそんな真似をするなんて、許せるわけがないだろう」

「お父さん、おかしいよ……! 何がそんなに大事なの! 長年連れ添った妻の最期の願いにも聞く耳持たないほど、世間体が大事だって言うの!?」

「おかしい? 俺が?」

晃雄はじわりと砂利を踏んで、さらに結依に一歩近づいた。結依は思わず手と腰で後ろに退る。

「おまえには判らんことだ。俺は沙和子を愛してた。まだ沙和子が学生の時に初めて会った時からずっと、今の今までな」

「だったら何で望みを聞いてあげないの。お父さんは自分の価値観で相手を縛りつけてるだけじゃない。そんなの愛情なんかじゃないわ! ただの独占欲の固まりでしょ!」

二人の間にかちりと固まった空気が流れたと思うと、唐突に晃雄がその血走った目から涙をこぼした。予期せぬ父の反応に、結依はぎょっとして更に一歩後ろにずり退がった。

「独占欲……独占欲か。はは、面白いことを言うな、結依。そのどこが悪い。自分の大事な相手を独占して何が悪い。沙和子は俺のものだ。あのふざけた馬鹿野郎に轢かれさえしなければ、もっと長く一緒に暮らせたはずなんだ……!」

いつの間にか結依の頬からも涙がこぼれ落ちている。涙と土くれが口に入るのも構わず、結依は声を振り絞った。

「――だけどお母さんに本当の自由はなかった。どんなに生活が裕福でも、自分の意思で物を選ぶこともできず、自分の父親や姉と会うことすらできない。すべてを夫の言うとおりにして初めて得られる自由なんて、ほんとの自由じゃない! もうお母さんを解放してあげて。本当にお母さんのことが大事だったんなら、もうお母さんを自由にしてあげて!」

「寝言を言うな、結依。いいか、俺は沙和子を手放すつもりはない。何のために火葬にしたと思うんだ。体面だと? だからおまえは考えが浅いと言うんだ。水火葬なんかにしてみろ、俺の手元には何も残りゃしない。火事のせいで火葬が怖い? その火事すら、俺と沙和子が出会うために必要なことだったんだ。だから俺には沙和子を守る責任がある。たとえ沙和子がどんな姿になってもな」

結依はすべての力を振り絞って、地面から体を引き起こした。再び晃雄が伸ばしてきた手を強く払いのけざま、素早く後ろに飛びすさる。

「あの火事が必要だった!? 冗談じゃないわ! 単なる偶然でしょう。たまたま出会った人に、悲惨な過去があったっていうだけじゃない。一人で英雄ぶらないで。そもそも話の辻褄が全然合ってないって! 何が守る責任よ。そこをどいて。お母さんを返して!」

立ちはだかる父を押しのけようと伸ばした腕をかいくぐって、晃雄の平手が結依の頬に飛んだ。初老とは言え、男が全力で平手打ちをすれば、たいていの女性は体ごと吹っ飛ぶ。結依は墓石とは反対の方へみたび倒れ込んだ。
その結依に晃雄がのしかかり、皺の浮いた両手で結依の細い頸を押さえ込んだ。ざらりとした晃雄の手の感触が、結依の肌にがっちりと絡みつく。

「そもそもおまえが散骨なんて言い出さなきゃ、沙和子をこんな墓に入れずともよかったんだ。おまえさえいなければ、沙和子を俺の傍に置いておくことができたんだ。俺から沙和子を取り上げる奴は、娘とて許さん……!」

叫ぶと同時に、晃雄の手に凄まじい力が込められた。一瞬で結依の意識が飛びかける。世界が白くなり、体中が酸素を求めて悲鳴を上げた。
お母さん……おかあさん……!!

「――鈴村さんっ! 何をしてるんですかっ! その手を離しなさいっ!」

白く濃い霧がわずかに薄れたかと思うと、ふいに肺へ空気が飛び込んできた。仰向けだった体を無意識に横に傾け、ひどく咳き込む。その拍子に砂利に混じった土くれを吸い込み、結依はなおいっそう激しく咳き込んだ。

「大丈夫ですか、結依さん!」

砂利の上に倒れたまま声のする方へわずかに顔を向けると、私服姿の岡崎が後ろから晃雄を羽交い絞めにして肩越しに叫んでいる。

「だ、だいじょ……」

その時結依は、ポケットの中のブイホが揺れているのに気づいた。震える手で通話ボタンを押す。純江だ。

『ああ、結依ちゃん! 今朝行くって言ってたけど、全然電話が繋がらなくて……大丈夫!? 私、嫌な予感がして……』

結依はとても言葉を返せず、代わりにバーチャルボタンを押した。墓石の前に純江の姿がありありと浮かび上がる。それを見た晃雄の口がかすかに開いた。

「あんた……純江さんか」
『晃雄さん、久しぶりですね。いったい何があったんです。結依ちゃんに何をしたの。まさかとんでもない真似したんじゃないでしょうね。妹を蔑ろにしただけじゃ済まなくて、実の娘にまで手をかけたんですか』

かすかに語尾を震わせながらも冷静に話す純江を見て、晃雄はふんと鼻を鳴らした。

「相変わらず気の強いことだ。姉妹とはいえ、沙和子とはずいぶん違うな。沙和子はとにかく従順で可愛い女だったが……あんたも火事に巻き込まれてりゃ、もう少し大人しくなってたか」

「おとうさんっ」

「鈴村さん! 何てことを仰るんです!」

暴言という言葉では収まらないほどの言い様に、結依が悲鳴のような叫び声を上げた。岡崎が、いったん離した手を再び晃雄の肘にかける。

――これが父か。規律第一でともかくも几帳面だった、あの父なのか。

首を絞められかけた衝撃も忘れるほどに、結依は信じられない思いで目を強く拭った。濡れた拳からは、かすかに土の匂いがした。


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