2024年度の診療報酬改定に向けた議論に関する記事が、2023年7月7日に公開されていた。
今更ながら読んでみた。
身体拘束の縮小のため、有識者が議論を重ねた様子が要約されている。
全てが記載されているわけではないので、実際の議論は不明である。
記事の冒頭について、倫理的観点からは至極真っ当な内容である。
これに基づいた議論が進められている。
「身体拘束」と聞くと、縛り上げられた老人をイメージする人も多いのではないだろうか。
もちろん腕や脚を拘束しなければならない場合もある。
例えば、脳に器質的な障がいがある場合。脳卒中、脳腫瘍、重度の認知症などなど。
こちらの説明や指示など全く通じず、むやみやたらに手足を動かして、挙句には柵がついたベッドから飛び落ちてしまう。
医療の人的資源には限りがあり、24時間付き添っている訳にはいかないので、手足を縛ることもある。
しかし、縛り上げられることのみではなく、ベッドから勝手に降りようとした時に反応する「離床センサー」や、体につけられた管を抜こうとしないようにする「ミトン」など、患者の苦痛を最小限にできるような「抑制具」も「身体拘束」の呼称に含まれている。
そのため、「身体拘束」の具体的な再定義が必要なのではないか、とされている。
まとめると、認知症患者の対策として、
①対応できる人を増やす
②対策にお金をかけられない病院への支援をする
③抑制したら病院への手当を減らす
...③どした?って感じですね...
抑制したらお金くれないから抑制しないって、効果はあるのかもしれないですが、医療現場の実情考えてますか?という。
利益追求の側面が強い業界ならまだしも、人命救助の現場でそれしますか?と思ってしまう。
...さらにどうした????って思います...
前半部分の、「トップの指示がなければ人は動かない」は、どの職業でも感じたことがあるのではないだろうか。
医療現場もトップダウンの温床。
病院院長が音頭を取るべき、という考えは一理ある。
しかし、病院長が身体拘束をされてみるべき、というのは、物事の本質からも、本質の達成のための手段としても、大きく逸脱している。
もちろん、医療者たちは、身体拘束による心身への負担は十二分に理解しているつもりでも、実際には理解できていないのかもしれない。
最初は身体拘束に対する罪悪感を強く感じていたが、回数を重ねるごとにそれも薄れては行く。
ですがそれは、
身体拘束の必要性とリスクを十分に検討した上で行なっている
から。
辛さや苦しみを完全無視しているからではない。
まるで医療者が倫理観を捨てて、よぼよぼの老人たちを無慈悲に虐げているかのような議論は、愚かな考えであるとしか言えない。
臨床を舐めているのだろうな、と思ってしまう。
身体拘束を必要とするのは、上記のように人材不足やコスト管理、法的責任の有無など、様々な側面での問題がある。
これら以外にも、
①家族の退院拒否により入院期間が延長している
②入院期間の延長により認知症が進行する
③高齢者の増加と高度医療の進歩により綿密な安全管理が必要な患者が著増している
④身体拘束以外の薬剤による鎮静が困難な場合がある
など、多くの側面がある。
身体拘束をしたら助成金を減らす、
なら、
身体拘束が必要となる可能性が高い患者には高度医療を実施しない、
がイコールにならなければ、
高度医療を安全に実施できずに死亡する人間をいたずらに増やすだけになってしまう可能性がある
とも考えられる。
身体拘束を実施するかしないか、という議論の前に、
なぜ身体拘束を必要としているのか、
現場レベルでの現実を見つめる必要があると、強く訴えたい。
厚生労働省をはじめとする医療有識者の皆様に、どうか届きますように。
(もうすでに届いてたらいいな!)