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「10年目の気持ち」/「堂賀さんからの手紙」

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「10年目の気持ち」

 東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞いを申し上げます。

 9年目が抜けてしまいました。というのは、「〇年目」の数え方を間違えていると、昨年の夏宮城県女川町で出会った酒井孝正さんに教えられたのです。
 その酒井さんと、酒井さんが連れてきてくださった堂賀貞義さん、そして震災をきっかけに知り合った友人岩手県の海辺のKさんの四人で、令和元年台風19号(令和元年東日本台風と命名される)の翌月対話をしました。

「防潮堤を選ばなかった町できいたお話」【1】

「防潮堤を選ばなかった町できいたお話」【2】

「防潮堤を選ばなかった町できいたお話」【3】


 今日だからという気持ちで、よかったら読んでやってください。

 女川町の再生、そこに向けて走った酒井さん堂賀さんのお話し、Kさんとの出会いと時間。
「被災地だからとは言えなくなってきた」
 福島県、地元の方々のそんな言葉を聴きながら、10年目は一区切りと思って前を向いて行こうと思っていた。
 実際、そういう気持ちでいます。

 ところが、誰の上にも新型ウイルス。
 まさかこの日に別のネガティブなことで気持ちを囚われるという形になるとは、思わなかった。
 地元のお花屋さんが、
「震災のときより悪い」
 そう言っていた。
 なんでかなと考えたけれど、比喩じゃなくて「目に見えなくて得体が知れない」からなんじゃないかとわたしは思っています。

 振り回されているし、落ちつかないし、不安だし怖い。ウイルスがというより、わたしは今は社会が不安です。

 今無理矢理ポジティブにならなくていいと思う。無理矢理落ちつくのも無理ならせず。
 ただ、ネガティブに引っ張られず、わたし自身は最低限、この誰のせいでもないウイルスのことでたとえ誰であっても人に当たることをしないようにだけ、そこだけがんばる。

 春は来るとか花は咲くとか今言われてもって、正直わたしが思ってるし、先が見えず、多くの人がフラストレーションを抱えていると思います。
 でも、9年前の今日、生活が戻ると想像できなかった人もたくさんいると思う。
 ある程度はなんとか戻った。
 戻ってない部分ももちろんあるけど。
 町が再生した女川町も、酒井さんの言葉を借りれば「そこは光の部分」で、人口減少や、様々な問題を抱えてる。
 だけど、9年前の3月11日には光はほとんどなかった。
 だから今も、また明るい日が来ると信じます。

 対話を構成するために、堂賀さんから写真やデータをいただきました。
 その最中に堂賀さんが、議事録を確認してくださいました。ちゃんと事実に当たり直す堂賀さんの姿勢が、堂賀さんの信頼の意味を教えてくれた。
 その堂賀さんから記事を構成している最中に、震災当日の記憶が3通のメールに分けて送られてきました。
 堂賀さんは、淡々とした穏やかな印象の方です。けれど記事を読んでいただけたら、わたしの印象は合っていないと思われると思います。正直、あれだけのことをしてきた堂賀さんという人を、わたしが知るのは無理だと思う。
 けれどその当日の記録が書かれたメールを読んで、
「当時のことを振り返って、無理に蓋をしていた感情が開いてしまったのではないですか?」
 申し訳ないことをしたと思い、わたしはそのようにメールしました。
 堂賀さんは、そうではないですと返事をくださいました。この日のことが誰かの役に立つかもしれないし、と書かれていました。
 最後に出てくる青年のしてくれたことを、伝えたかったのかもしれません。

 わたしは感情の蓋が開いてしまったと思った。9年が経っても。
 堂賀さんは違うという。
 堂賀さんの本当の気持ちを、わたしも、堂賀さん自身も知ることはできないように思います。

 2011年3月11日はそういう日でした。

 時間と人の力が、その日とは違う明日をくれました。



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(写真・福島県会津地方2017年)

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(写真・女川町2011年)

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(写真・女川町2019年)


「堂賀さんからの手紙」


昨日、役場に行って震災当時の災害対策本部の会議録をチェックしてきました。
当時のことを思い出しましたので、補足いたします。

震災の起きた3月11日、地震が起きてすぐ中学校に移動し、坂道で避難誘導していた私は、雪が降る中、津波で町が壊れる状況を横目に見ながら避難所となる女川町総合体育館に徒歩で移動しました。日暮れ(夕方)が近づいてきたからです。
体育館は、人、人、人でごった返していました。
まず、役場職員を集合させたところ、私を含めて17人。顔ぶれを見たら、私が年上でした。
私は、すかさず職員に割れたガラスの掃除と気休めになるかとは思いましたが、体育館のフロアにあるだけのシートを敷くよう求めました。停電していましたが、明かりは、自家発電の燃料があるというので対応を職員に任せました。
次いで、水が流れないトイレ。小は何とか流れると思いましたが、・・・「どうしますか?」との問いにとりあえず、体育館前の側溝のふたを開けさせて便器にし、テントで目隠しを作りました。男女1張りずつの臨時トイレです。
水については、いち早く浄水場に行って確認してきた同級生に「2週間分はある。」と聞き、気の利く職員が、水飲み用の大型水筒?と紙コップを事務所前のカウンターに設置して対応しました。
困ったのは「暖」。でも、こちらが職員に指示する前に町民らが掃除用具用ロッカーを横にして7か所、焚火を始めました。
(この焚火、津波被害を受けた下界から木材を調達し続け1月ほど絶やすことなく燃やし続けられました。)
私は、職員に施設にあるだけの木材を集めるよう求めました。燃やすものは、十分ではなく、今後どうしたものか考えていました。
小学校の校長先生が私に「学校の跳び箱を提供しましょうか」と」声をかけてくださいました。
「おねがいします。」と回答させていただきました。職員の一人が、飲み物の自動販売機を壊していいでしょうかと切り出したので「いいよ。」と即答しました。事態が事態なので、この際、器物破損で捕まってもいいと思いました。
職員は、バールを使って奮闘すること30分。飲み物は、騒ぎになりかねないのですぐに住民に与えないよう指示しました。
食べ物が調達できない中で、救援物資が届くまで長丁場になることは、目に見えていました。
そんな中で我慢を強いられるのは我々町職員であろうことは、分かってましたので、食い物にありつけない時に甘い飲み物は、職員に配布しようと思っていました。実際、予想通りの状況になり、2日目3日目、食べ物にありつけなかった職員に、住民に見つからないよう飲めと指示しました。

(3日目に)、事務所に詰めていた町議会議員に言われました。
「堂賀君、職員が空腹で動けなくなったらこの避難所はまわらなくなるぞ。」と。ずっと緊張していたせいか、私は、腹が減っていることを忘れていました。この時、「はっ」とさせられましたが、3日目の夕方、職員は、津波被害を受けた下界から拾ってきた冷凍さんまの煮汁にありつけたようでした。私は、一番最後に鍋に残ったさんまのひとかけを口にしました。最高においしかったです。
それでも空腹であったことは記憶していません。私は、水だけで1週間ぐらいはバリバリ動けると思ってました。

食べ物は、生協の車が積んでいた一抱えの食品のみ。それでもお菓子が30個くらい、保母さんに避難してきた幼児の人数を確認したところ26人。お菓子は、明日の朝、幼児に配るよう保母さんたちにお願いしました。小学生から年寄りまでは我慢してもらうことに決めました。
当然、職員に「このお菓子に手を出すな」と釘を刺しました。

一番困ったのは、通信手段が使えないということでした。外部との連絡は衛星電話なるもの1台、企画課の職員が使っていたようですが、まもなく電池切れになりました。乾電池で流れるラジオからは、「女川町が壊滅しました。女川町が壊滅しました!」との情報が流れていました。

ほとんどの人が、家族の安否がわからず。ただただ耐える時間だけが過ぎていきました。

一人の関西弁の外来者が、私を捕まえて、「何でここには通信施設が無いんだ。行政機関なら常に配備しておくべきだ。
私は今すぐ会社に連絡を取らなければならない。どうなっているんだ。職員の対応が悪すぎる。」とまくし立ててきました。
「ここにおられる皆さん全員が通信できなくて、あなたと同じ思いをしている。通信手段がないのは申し訳ない。それでも気持ちが収まらないのならば、職員の対応が悪いと名指しで指摘されてもかまわない。」と自分の所属と名前を告げてお引き取りいただきました。
普段控えめな私は、体育館のロビーでハンドマイクを手にして避難者の方々に今後行うだろう作業への率先的協力としばらくここで過ごさなければならないことに対する考え(お互いに対する気遣いや最低限守るべきルールなど)を叫んでいました。
以降、私は、事務所の真ん中に陣取ってほとんど眠れない長い時間を過ごすことになりました。

とうに日が暮れ、暗くなってからご老人のご遺体とずぶ濡れのけが人たちが運ばれてきました。けが人は、町の保健婦さんたちが献身的に対応してくれました。ほんの数時間の時間経過、一連の序章にすぎませんでした。

時刻は夜の7時か8時ころだと思います。
私の義叔父と町議会議員さん、叔父の友人の3人が、事務室の私のところに真顔でやってきました。
「清水地区の山の方で(生存者が)焚火しているようだ。これからそちらに行ってみたい。」
清水地区は、私の実家がある地区で私の両親、兄夫婦家族の安否も確認できていませんでした。
この時、私、というより家内の叔母の安否がわからなかったということで、叔父たちが津波警報が収まっていない中、行かせてくれと懐中電灯を手に握りながら何度も許可を求めてきました。
私は、許可など出せる立場にないことから何と返答してよいか困りました。
危ないのは双方承知していましたが、「大丈夫だ。山伝いに移動できる。」と迫る先輩方。
津波が来ている下に降りないで行けるならと聞かなかったことにするといった責任を回避するような言葉を避け、「必ず帰ってきてくださいよ」と告げました。とんでもない非常事態、決してやってはならない判断であることは承知していました。
結果、焚火をしていたのは、私の兄たちで、叔母はすでに津波に流されて帰らぬ人となっていました。

冷たい風が吹き抜ける体育館。夜通し、眠れない人たちが何度も表玄関のドアを開け、焚火に当たりに向かいます。
そのたびに体感温度が下がりました。事務室には職員が集まって仮眠します。
気が付くと若い職員が床にじかに座ったままガタガタ震えていました。少しはましかと思い椅子に座って過ごせと促しました。

若いお母さんがずっと泣き止まない小さい赤ちゃんを背負って体を揺らしています。寒い中だいぶ長い時間泣いています。
事務所の窓から様子をうかがうと赤ちゃんの首回りがあらわになっていました。
私は、お母さんを小声で呼び寄せ、首に巻いていたタオルを赤ちゃんに巻きました。まもなく鳴き声は消えました。
久々にいいことをしたと思いました。

震災二日目の朝は、昨夜の悪夢が嘘のような晴天中の晴天、その明るさからは、陽の暖かささえ感じられました。
女川町総合体育館の前には、避難してきたたくさんの車が並び、多くの人は、それぞれ車の中で暖を取っていたようでした。
ここで一夜を過ごした人々は、生活習慣のほとんどを失いながらも動き出しました。一晩中火を焚いていた人たちは、夜中の会話の続きをしていました。

ラジオからは、依然として津波警報が発令されたままで、ヘリで集められた各地の情報が繰り返し、繰り返し流されていました。


午前、職員でごった返す事務所に一人の兄ちゃんが入ってきました。
痩せ型、メガネ、身長175くらい、長い髪を後ろに束ねて口ひげを生やした、
一見、ヤンキーの兄ちゃんが、やおらドアを開けるなり、私のところへやってきて
「下の子の安否が分からない。(津波被害で歩けないエリアの向こうにある)第一保育所に息子がいるはずだ。これから保育所に行きたい。行かせてくれ。」と懇願してきました。
警報が継続されている中、危険なのは百も承知です。彼としては、私に許可を出してほしい。
その許可はたぶん彼の背中を押す効果を秘めていたんだろうと思いました。
死ぬ気でガレキの中へ踏み出せ。そして息子と会って来い。と。
当然、私としても二つ返事で「わかった。」とは言えず、昼を挟んでこの問答が数回繰り返されました。
繰り返す問答の間に時間が空いたのは、彼が、坂を下って下の様子を、そして歩くルートを探していたからだと推察しました。
2時ころだったと思います。外部から、第一保育所の子供たちは全員無事だという知らせが入ってきました。
知らせの発信元は分かりませんが、あらためてそれを伝えると私の横に立っていたヤンキー兄ちゃんは、人目をはばからず、ワッと泣き崩れました。私は、彼の背中をたたいて「よかったなあ。よかった。よかった。」と、繰り返し子供の無事に胸をなでおろしました。

日暮れも近くなった時刻、彼がまた、事務所のドアを元気よく開けて入ってきました。
「堂賀さん。一つ提案があるんです。俺は開発(宮城県開発株式会社:石材(建設用の砕石、捨て石等)の生産販売をしている会社)でダンプの運転手をやってます。(※名前は岡本君)実は、石切り場の山のてっぺんにバックホー、ローダー、ダンプがカギを付けたまま置いてあります。重機は全部大型で6台、ダンプも5台くらいあります。今日はもう夜になるんで明日の朝、ここから徒歩で山に登って重機で道を開こうと思うんです。このり地区から攻めて国道と体育館をつなげたい。」
私は、「おおっ!」と思いました。
本来なら町長から会社に依頼、許可をもらって動くべきところですが通信手段は何もありません。
昨夜壊させた自動販売機のことがあたまをよぎりましたが、ごちゃごちゃ思案するより早く「やってくれるか!?」?と
お願いしました。
と、なれば、重機を動かすオペレーターを集めなくてはなりません。
ハンドマイクを手に体育館の前の群衆に向かって叫びました。「明日の朝、重機を使って道路を開きます。この中にバックホーのオペレーターの方、ローダーのオペレーターの方いらっしゃいませんか?」と繰り返しました。2千数百人もいるといるものですね。一人、また一人とヒーローが集まってきてくれました。
三日目の早朝、女川第一中学校に開設した災害対策本部から伝令が来ました。
(朝の)6時から会議あるので来いと。一人徒歩で中学校へ向かいました。会議は、校長室で行われました。
会議の冒頭、私から昨日の経緯を説明し、彼らはすでに行動を起こしていますと伝えました。
策はすでに岡本君が練っていました。3~4人集まったと思います。彼らは岡本君の指示で3日目の早朝、何も食べず、水も持たずにガレキを乗り越え、うっすら雪化粧した山を登ると重機を運転し、下山してこの地区から道を開き始めました。
夕方、仕事をやり切った顔をした岡本君が事務室に入ってきました。
このりから駅の方まで道を開いたと。バックホーとは違い、タイヤで動くローダーは機動力が高い。
あっという間に長い距離道路の障害物を排除したのです。
一通り仕事の内容を報告すると、「女川橋(国道に架かる大きな橋)も津波で流されています。上流の橋は残っているが、小さくて重機の重さに耐えられないと思う。これでは、(町の東側)石浜方面の道を拓くことができない。」
「どうしたらいい?」
ここで思いがけない言葉が岡本君から吐かれました。
「この際川を土砂で埋めますか?」
と。
「大雨降ったらどうするんだ?」
と私。
すると、
「大雨降って洪水になっても家も何もありませんよ。」
「それもそうだな。」

これと全く同じ会話が町長と私の中で繰り返されました。岡本君の受け売りです。
提案者岡本君がしゃべった言葉は私が、聞き手の私がしゃべった言葉はそっくり町長の口から発せられ、まもなく川をせき止めて国道をつなげろとの指示が出され、実質2日間(震災後8日後完成)で工事は完成しました。
あの日の出来事を3人の子持ち、岡本君を中心に抽出して書き留めました。
彼が先導して行った作業(偉業)に光が当たることはありませんでした。
すべては、行政の仕事として会議録に短く記されているだけです。
私の仕事も同じです。漁港整備とか海岸防災なんて仕事は一般の職員には理解しがたい、面白くない、関心のない世界です。

今日、ファミリーマートで作業姿の漁民と会いました。こちらから声をかけると顔じゅうのしわを作って笑い返してくれました。
これが私がやってきた仕事の成果だと思いました。
漁民が笑ってくれればそれでいいと思いました。


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