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「防潮堤を選ばなかった町できいたお話」【2】

 防潮堤について聴く中で、
「やめる勇気を持った」
 という言葉を聴いたと時々思い出す。
「やる勇気」
「やめる勇気」
 どちらも勇気だ。
 どちらも同じと、それを時々思い出す。

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(写真・女川町2019年)

「まず機能することという、その具体的なこと。流された800隻の船、残った200隻を守るために」

堂賀:必要最小限といえば、震災前、漁船が1000隻あったんです。
K:すごいですね……1000隻って。
堂賀:それが、800隻なくなったんです。津波で。
酒井:流されてね。
堂賀:それで残った200隻、残った2割を守る施設がなかったんですよ。停留させる場所が。これが牡鹿半島としますよね。

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(挿画・堂賀貞義)

 堂賀さんが牡鹿半島と湾をさらさらと描く。

堂賀:この牡鹿半島がゴムの板みたいにこう引っ張られる形で隣の牡鹿町は1.2メートル。女川は1メートルの地盤沈下を起こしたんです。
菅野:海底が?
堂賀:そうそう。女川町の土地全体が下がったから、満潮になるとどうなると思います? 港が水面下になって見えなくなるんです。それで漁師さんが困ってる、船つける場所がねえんだと。嵩上げしてほしいという希望がこっちにきたんですね。

 残った200隻の船も、つける場所がなければ流されてしまう。困るどころではない。

堂賀:それで、すぐにでも仮設の岸壁が必要だとなったんです。復旧の基準もないので自分で決めました。津波から免れた船一隻につき、岸壁長さ3メートル分を嵩上げする。高さは、満潮高さプラス30㎝。大きい船も小さい船も一律3メートル。その港で残った船が10隻なら30メートル分の岸壁を嵩上げする。きちんと岸壁直すまで、それで我慢してくれって漁師を説得しました。あくまで仮の係留場所。それでも試算したらそれが1億かかるとなったんです。各漁港に作る仮設の係留場所と盛り土による仮設の作業場所、緊急にして必要最小限でも1億。で、町長に直談判しまして。

菅野:あの、さっきもそんなことおっしゃってましたが何度も説き伏せてますよね!(笑)

酒井:船が残った人は、とにかく早くやってほしいからね。何もしなかったらせっかく残った船まで駄目になっちゃう。各漁港、防波堤も被災して波浪に対して漁船は無防備だったから。
堂賀:漁師が困っています。仮設の岸壁作らせてくださいと、町長に言いました。いくらかかるんだと言われて、1億かかりますと。町長はその場で即決してくれました。「やってくれ」と。で、すぐ補正予算を議会にかけて、町内で動ける建設業者に2漁港ずつ発注して、急いでつくってもらいました。
菅野:本当に一つ一つ判断が早い……。


「行政への思い、本当に守らなくてはならないもの」

菅野:あの、震災のときのことを今言ってもしょうがないというか。10年目がくるというその時間で一つの結論は出ちゃってると思うんです。今から3・11の被災地が女川町をモデルにしてやるわけにはいかない。女川町も、10年目にこういう結果が出ると震災当時思っていたわけではないですよね?
堂賀:他の町と違うとか、情報が届かないんで気づく暇もなかったです。
菅野:東日本大震災に焦点を当てると、今から言ってもしかたないけど。つい先月、あの台風があって。きっと今後もあるだろうという中で、こうして判断が早くて結果が出た町があるということが、今から何処かの町で役に立つモデルになると思うんです。それを発信したい。ああでもないこうでもないって言ってる間に、いろんな施設がバラバラになって……ね?(隣のKさんに)
K:おばあちゃんたちが本当に困ってます。もうどうにもならない。
菅野:役所がとなると、本当に難しいことなんだとは思うんです……でも難しい内容が正直どうかとは思います。この間の台風で神奈川県で断水した町があって、県の指示で自衛隊の水を廃棄したというような記事を見て。
酒井:報道であったね。

「台風19号で断水 町の自衛隊給水支援に神奈川県が“待った”」(日刊ゲンダイ)
公開日:2019/10/15 14:50 更新日:2019/10/15 14:50
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/263282
神奈川県知事の公式見解
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/j8g/cnt/taihu2019/yamakita_comment.html

菅野:ちょっと信じたくない話なんですが。町が県の頭越しに自衛隊に給水を要請して、三台の給水車が自衛隊からきたのに県の体面が立たないからその断水した町に水を渡せず廃棄したって(この対談時の報道からの菅野の認識)。
堂賀:バカだね。

 穏やかで、やさしげで、「バカ」という言葉さえ似合わなく思える堂賀さんが、ぽつりと言った。

菅野:もし面子が立たないみたいな理由で断水している町に向かった水を捨てたなら、本当に信じがたいです。
堂賀:本当にバカだ。

 堂賀さんに、初めて憤りのような感情が見えた。
 震災当時堂賀さんは、どうやって人を生かすかと毎日、毎秒考えて、考え続けて足も使い測量で数字も出して心身を削って判断し続けた。
 それは人を生かすための時間でしかなかった。

菅野:でも実際に行政の判断を見ていると、そういうことは多々あるのが事実だとも思います。新聞を読んでいるだけでも。そちらが現実だとしたら、判断して上と掛け合ってってやられたことがすごいことだと私には思えるんです。そして結果が出てる。
酒井:犠牲者数をFAXで送れと当時県から言われてね。まあ、現場のことなんか見えてないわけです。上は。FAXなんか使えないよ。だから町長が判断して、談判していくしかない。幸い、女川町は役場の人間が残った(震災時犠牲になった方が1名)というのは大きかったと思います。役場が機能した。
菅野:機動力のある方が……こういう言い方は抵抗もありますが。あの震災のときに命を取り留めたということも大きかったということなんですね。
堂賀:それはやはり大きかったです。私はあの地震があった時役場にいましたが、東北大の今村先生の話を何度か聞いていたんで、今回は女川に10m級の大津波が来ると確信して、すぐに中学校のあるそこの丸子山に移動しましたから。おかげで車は流されましたけど、空身でも生きていればなんとかなるんです。
K:うちは警察と消防と役所がやられて。災害後すぐに動かないといけない施設は、残るべきところに建てないといけないんだとあの後思いました。
酒井:まあ、あの後だよね。女川町も役場の人間の命は残ったたけど、事務所はすっかりなくなって。震災時に、ブレハブで水産とか加工とか同じ屋根の下でやれたのも大きかったのかな。
菅野:でも、さっきの極論みたいな話ですけど。県と町のやり取りの中で水を捨てられてしまうような自治体もあるわけじゃないですか。そういう体面とか面子がとかいう人々を同じ屋根の下に入れたら、大喧嘩が始まっちゃうかもしれないわけで。

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(写真・女川町2019年)

「仕事があるという希望」

菅野:お話を伺っているとこの町は、話し合える町だったんだなって思うんです。独特だとも思います。それってどうしてとかありますか?
堂賀:何処にでもいろんな人がいますから、気持ちで伝えるというのはあるかもしれませんね……。震災を受けて間もない5月の初め、市場の加藤専務さんと買受人組合の高橋理事長さんが私のところにやって来んですね。お二人とも業界のトップで我々技術屋がお話しする機会は全くない人たちだったんですけど「7月に水揚げを再開したい。市場の岸壁を何とかしてくれ」って頭を下げてきました。女川漁港は、町の管理じゃなくて宮城県の管理なんです。私も大変な状態になっていることは分かってました。岸壁のいたるところは壊れているし、地盤沈下でいつも冠水している。
菅野:水揚げしたいっていつの7月ですか?
酒井:その年の7月。
菅野:震災の年の……。
堂賀:話を聞いてすぐ県に行ってきました。当時、県の合同庁舎も震災被害を受けていたので、石巻専修大学の体育館に事務所を構えていたんですけど、相手は東部振興事務所水産漁港部次長の阿部さんという技術者の大ベテランでしてね、ひょうひょうとした態度で私の話に耳を貸してくれました。そしたら岸壁の直し方については「堂賀さんに任せる。」と言ったので、コピー用紙をもらって船をつける桟橋の構造を簡単に描いたんです。「これでお願いします。」と。

 堂賀さんは、絵でわかりやすく桟橋の様子を描いた。

堂賀:これが1m沈下しました。満潮になると全部冠水するんです。こんな感じで。

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(挿画・堂賀貞義)

それも絵でわかりやすく説明してくれる。

堂賀:だから、その場で寸法まで書いて。これは1.8mでいいです。これはアスファルトで舗装してください。ここはコンクリート打ってください。嵩上げしても桟橋は大丈夫です。ここには仮設の市場を配置したいなどなど。そしたらね、阿部さん、すぐ工事を発注してくれたんですよ! 私のマンガどおりに。阿部さんにはすごく感謝しています。今でも。

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(挿画・堂賀貞義)

菅野:あの、質問なのですが。私何もわからないので、大変失礼な質問なのですが。県に交渉に行かれて、その場でこうして絵を描いて説明をして、説明や素材までわかりやすく指定する。そういった能力って、役場の方って普通持ってるものなんですか……?

酒井:堂賀さんは専門だから。他の役場の方ではできない。
菅野:私の素人考えだと、こうしてその場で寸法まで描いて目で見てわかりやすいから話が早いというのはあったんじゃないかと。予算も見えるわけで。堂賀さんがいらっしゃったから早かったという部分はあったのではないのですか?
酒井:それはあったよ。
堂賀:いや、俺じゃない。次長がすぐやってくれたためです。仕事を請け負った施工業者の機動力にも目を見張るものがあったし。だからたったの40日で岸壁嵩上げ120mと用地舗装が仕上がって、7月1日に水揚げ出来たんです。
K:7月1日に……。

 Kさんも海辺の町で、2011年の7月1日を過ごしている。
 彼女の7月1日は、また違う思い出だったと、そんな声だった。

菅野:2011年の7月にこの海辺で水揚げできたなんて……。
堂賀:あのニュースは大きかった。明るかった! 希望の持てるニュースだった。

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(7月1日の市場水揚げに向けて県が行っていた岸壁仮復旧工事の施工状況・写真提供堂賀貞義)

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(女川市場仮復旧工事の完成写真・写真提供堂賀貞義)

 その日を思い返して、堂賀さんの声が明るく上がった。
 3月11日にあの地震があって、その7月1日に水揚げをするためにひた走った。
 そしてそれが叶った。
 女川町だけでなく、それは津波に襲われた海辺、港には本当に明るい出来事だったに違いない。

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(写真四点・女川町2019年)

「人という力」

菅野:私……今やっと、女川町はどうしてっていう答えの一つが見えた気がするんですが。人材がすごく大きいと。堂賀さんみたいな方がいたということはとても大きかったのでは。
堂賀:いやそんなことはないです。ただの技術屋の一人です。
酒井:それは本当にそうですよ。
菅野:その場で概略でも見積もりができるというのは、とても大きいですよね。
酒井:大きい。見積して、こうこうこの予算で船を停める場所が作れるとなる。まあでもそうすると、浜の元気のいい人たちがちょっと待ってくれうちはどうすんだって来ちゃうんだけどね。
菅野:浜の元気のいい人たち!(笑)
K:うちも浜の人たちはすごく元気がいいです(笑)
堂賀:口論になっても手を上げないだけましですよ。女川の漁師さんは。(笑) 

 漁港が大きい女川町は、漁師たちの声がきっと大きい。町の中心に漁業があるのかもしれない。
 堂賀さんはその漁業者と、震災よりずっと前から寄り添ってきた。

堂賀:要望だけでなく、苦情も全部私に来ました。でも、できないことをできるって言ったこと一回もないから。

 できないことをできると言ったことがない。その言葉にはっとさせられた。
 とにかくできるなんとかなると言い張ることよりも、実際の暮らし、ましてや復興の中でそれがどれだけ大切なことか。

菅野:信頼関係の積み重ねがあったんですね。
酒井:それが大事。
菅野:私の仕事でもそうなんですが、できないことをできるって言われるのが一番困る。自分もそれをしてしまったときが、最も信頼を失う時です。やらかしたことはあります……。
堂賀:(笑)
菅野:今、できないことをできるって言わなかったっておっしゃったから気づきました。「え、やってくれるって言ったじゃないか」みたいなことが、今まで一度もなかったんだってことですよね。それってすごくおっきな信頼です。
堂賀:だからみんなで集まった時、「うちは防潮堤作んねえよ」って言った時、誰も何も言わなかった。みんな防潮堤の存在自体邪魔だと思ってることが、私もわかってたので。
K:本当にそうなんですよね……。
酒井:実際生活する上で、チリ地震のときに作られた防潮堤が邪魔だったという体感がずっとあってね。

 そんな女川町の中でも、避難が必要と思われる場所には防潮堤代わりの護岸を作ったという細やかな説明がされた。

菅野:この町の中で一律防潮堤を作らない、作るではなく、必要なところには作る、必要ないところには作らないという判断はすごい能力だと思います。この町のその能力って、当事者としてはなんだと思いますか?
堂賀:いつも真剣に考えてる。何が必要なのか、本当に必要なのか。どうするのが一番いいのか。
菅野:いや、でも何処も考えてると思いますよ! それは!
堂賀:対人的には、我が強くて自分の要求を押し付けるような、私にしてみれば極端に乱暴な漁師がいないというのは、ストレスなく思考できる。あるかなあ。その代わり答えはこっちで考えて描いて「どうだ?」って感じで。まあ、漁師に限った話じゃないですが。
K:田舎であればあるほど面子にこだわる人がいて……。
酒井:いることはいますよ。
K:有事で、いやいやそんなこと言ってる場合じゃないって思っても、面子にこだわる人ってどうにもなんないから。女川町も何もかもスムーズじゃなかったとは思うんです。嫌な思いなさったこともあるかと。
堂賀:ありますあります。たくさんあります。
K:それでもこうやって進められたのって、人の力だなって。
堂賀:震災で、今までつくってきた漁港施設全部壊れたの見て、直すの俺しかいないって思いました。漁師さんたちとたくさん話し合って、時間かかるかもしれないけど辛抱してちょうだいね。直すとこは直すからって。
K:すごく正直ですね(笑)
酒井:1億という中で、できることできないことちゃんとやったからね。全部ちゃんと直すとなったら20億30億かかっちゃう。
菅野:残った200隻の船を、今できることで最低限守る。それってその場の現実的なビジョンですよね。自分の地元の当時の記憶との違いを感じます。7月に水揚げしたいって、仕事があるってことですよね。それって本当に大きな希望。何がしたいからこれが必要というのがあるから、動いていったんだって。
堂賀:何もないのにいきなり明日の希望持てって言われてもね……。
酒井:ここに仕事があったというのは大きかったね。

 田舎町で被災して、仕事を失うというのは災害による大きな不幸の一つだ。
 それは福島県の中にいて、原発からなんのあてもなく避難してきた方々を目の当たりにして実感したことだった。

 希望はどうしても必要だ。無理矢理作ることは難しい。それでも何か「明日こうしたい」という気持ちに向かって、現実的に動いた人々がいた。そんな防潮堤を選ばなかった町できいたお話は、【3】に続きます。

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