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人生万事塞翁が馬−10

高年期の生きがい

毎日、平穏無事な生活を送っている人間にとっては、「生きがい」という言葉は、思い浮かべることさえむずかしいかもしれないが、世の中には、毎朝、目が覚めるとその目覚めさえ恐ろしくてたまらない人たちが、あっちこっちにいるといわれている。

「ああ、今日もまた、一日生きていかなければならない」という思いに打ちのめされ、起きだす力が出てこないといわれる人たちである。

「耐えがたい苦しみや悲しみ、身を切られるような孤独と寂しさ、はてしない虚無と倦怠。

そうした中で、何のために、どうして生きていかなければならないのか」と自問せざるを得ないのかもしれない。

例えば、最愛の人を失った人、自分の全てを賭けた仕事を失敗した人等、ある意味で悲嘆の中で人生を歩いている人たちといえるかもしれない。

また、同じ条件の中にいても、ある人は生きがいを感じられず悩み、ある人は生きる喜びにあふれている。

その違いはどこから来るのだろうか。

性格の問題や心の持ち方の違い、対人関係や社会生活の仕組みの問題なのだろうか。

いろいろな答えはあるだろうが、そういう意味でも「生きがい」という問題は、簡単に片づけてすむようなものではないのかもしれない。

何故ならば、人の生きがいとは、きわめて個別性が高く、何が生きがいになるかという問いに対して出来あいの答えはひとつも無いのであろう。

いずれにしても、人間は、自分が生きていることに対して自分を取り巻く世界から何か手ごたえを感じないと心身共に健康に生きにくいものなのかもしれない。

例えば、「あなたは何を生きがいとしていますか?」という問いに対して、高年期の人たちで十分な確信をもって応えられる人がどれだけ存在するだろうか?

自分の存在は何かのためになる、或いは誰かのために必要であると肯定的にこたえられれば、それだけで十分に生きがいと言えるだろうが、高年期に到達した人たちの悲哀のひとつは、その答えを容易に見いだせないことにあるのではないだろうか。

勿論、ゴルフや同世代の人たちとのサークル活動が生きがいという人たちも存在するが、それは、自分でなくてもいい、いってみれば、「取り換えのきくつながり」といえよう。

真の「生きがい」や「やりがい」とは、世の中から必要とされるということにあるのではないだろうか?

「必要とされる」というのは「世の中の役に立つ」ということよりも「他人とひとつのことを成し遂げようとする」ことにこそあるように思われる。

そのつながりは、「必要不可欠」な結びつきといえる。

月に何回か顔を合わせる飲み会の仲間やゴルフ仲間或いはサークル活動のメンバーのような自分でなくてもいい、「代替がきくつながり」ではなく、「同じ思いを持っている、かけがえのないつながり」といえる。

これを実感できてこそ「人は充実感を持って生きていくことができる」のではないだろうか。

従って、高年期の人たちに生きがい感を持ってもらう場合には、「効率」ゃ「結果」ではなく,「意味のあるつながり」、即ち、高年期にある人達の存在が、こちらにとって必要なのだと、いわゆる「他人から必要とされる」「つながり」を感じてもらうことが極めて大事になってくるように思えてならない。


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