2024/6/17

昨日は父の日だったらしい。僕からすると「だからなんなのか」と思う日でしかない。父親とは生き別れたから。

人生の半分以上を片親家庭の下で過ごしてきた。小学生低学年辺りの頃に父親はなぜか蒸発していたし、それを不思議に思うこともなかった。
彼はとても変な人だった。モラハラ系の男性であり、給料や保険金はパチンコ・スロットに溶かし、借金もしてたらしい。印象が最悪なあの父親だが、僕が彼にこのような印象を与えた理由は、母親が彼のことを捻じ曲げて教えたからだ、と言ってたらしい。上記の彼の性格・行動は間違いなく本当に思える。なぜなら僕が母親と引っ越しをしたとき、その理由が「彼が家賃を支払うところを、借金により滞納していたから」だったからだ。

結局、父親の行方も分からず過ごしている。なにが父親だろうか、そもそも親とはなんなのか、時々考えたくなる。

自分にとって、父親がいないということは一種のステータスにしか過ぎない。身長がいくつで、兄弟姉妹は何人いて…という中に、そういえば僕は片親で育ちました、という感覚でしかない。けれど家族構成や親族の話をなんとなく話す機会があろうものなら、声に出してみた後に空気が重くなる。心中お察しします、というような視線や言動を感じるけれど、結局いないものはいないのだし、とも思うから、心配されるようなことではない、と感じる。どこかで普通の考え方を失ったが、ある意味僕にとってはメリットを感じる変化だったのかもしれない。

毒親という言葉のみならず、親ガチャという言葉が世間で言われることなどを踏まえると、この数年だけでも子供と親の立ち位置・関係が変わったような気がする。親を大切にすることが子供の役目であり善い行いである、とされてきた気がするし、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけれど、そんな親に苦しめられる子供が一定数いることだって偽りのない事実だ。宗教二世など、今に始まったことではないはずだ。親ガチャという概念が間違っていると異議を唱える人もいるだろうけれど、家庭内にはたくさんの事情があって、特に親に問題があるとすれば子供たちにできることなどほとんどない。親には勝てないのだから。

もし父親に会えるなら聞きたいことがたくさんある。僕のことを愛していたのか、愛していたならばなぜあんなことばっかりしたのか。これは愛されたいと思っている僕のエゴイズムにしか過ぎないのだけど、彼なりの答えを知りたい。まあ、会いたくないけれど。

『行かないで 見渡して 羽ばたいて 口ずさんで いつか』
ルーキー/サカナクション


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