THINK TWICE 20200621-0626
6月21日(日) 聖なる鹿殺し
アマゾンプライムで映画『聖なる鹿殺し』を鑑賞。
公式サイトに掲載されているあらすじはこんな感じ。
監督は『ロブスター』のヨルゴス・ランティモスで、主演はコリン・ファレル、ニコール・キッドマン。第70回カンヌ映画祭(2017年)脚本賞を受賞した作品です。
「よく分からなかったので見終わったら解説して欲しい」と、先に観た友だちから言われたんだけど、ぼくはそのよくわからなさも含めて、すごく楽しみました。
この作品にかぎった話ではないのですが、たとえ分からなくても、観たものすべてをストンと受け入れてしまうので充分じゃないかなぁ。
映画を〈分かる〉───ということ。
町山智浩さんが『〈映画の見方〉が分かる本』を上梓した2002年には、町山さんが提唱した映画の見方が〈分かる〉こと、には相応のインパクトがありました。
カイエ・デュ・シネマ/蓮實重彦センセイに代表される「〈分かる〉ための映画評論そのものが分からない」というジレンマからの解放感というか。
しかし、町山さんや『映画秘宝』、あるいはムービーウォッチメン的なスタイルの映画論によって〈分かる〉のハードルは下がり、とっつきやすいものになったけれど、〈これくらいは分かって当然〉という別種の呪縛が生まれて、楽しめたか/楽しめなかったか、より、わかったか/わからなかったか、という点を重視する傾向がいっそう強まった気がします。
60年代、伊丹十三さんがエッセイで「スパゲッティは断じて、炒めうどんではない」と喝破し、アルデンテという茹で方を日本人に紹介したことが知られています。それが本格的なおいしさだと信じられて、日本の家庭でも当たり前のようにスパゲッティはアルデンテで茹であげられるようになりました。
しかし、イタリアでもアルデンテを重視するのは主に南部地方だけで、北部に行けば行くほど、うどんのように柔らかく茹でる傾向があります。
また、地域性に関わらず、茹で加減はアルデンテにこだわらないよ、という人がほとんどで(日本で言えばラーメンやうどん然りですね)「断じて」なんていうルールはイタリアのどこにもありません。
イタリアだけでなく、ロサンゼルスのわりと本格的なイタリアンレストランで食べたスパゲッティも、アルデンテというよりは全体にムチムチした茹で加減で、それはそれでおいしかったです。
アルデンテ信仰に囚われているのは、日本人だけかもしれません。*1
何が言いたいかといえば、料理は材料や調理法の解析以前に、誰しもおいしいか/おいしくないかで語るように、映画もおもしろいか/おもしろくないか……という感想がまず先にあって、そのおいしさについての分析……分かるか/分からないか、は考えたい人だけが考えて、語り合うだけでいいんじゃないかな。
さて、ここからはこの映画を「おいしい」と感じたぼくが、どう食したか、ということを書きますね。すでに作品を見た方に向けていますので、これから見ようという人は読み飛ばしてください───
───いいですか?
まず、先に書いたように、ありのままに映画を飲み込んでしまうというのが、ぼくの解釈Aです。
マーティン青年が何者か、彼が行使する超自然的な力がどのようなものなのか、あまり深く理屈を考えずにストンと飲み込んでしまう。そして、あの医者一家が選ぶ不幸な結末もそのまま受け入れる。それだけでも充分にあの不穏さ、作品の凄みは感じられると思います。
そのうえで、ぼくにも解釈Bというのがありまして。
それは映画全体が長女キムによる想像上の物語だったんじゃないか───というものです。
キムは学校の課題でギリシャ神話「アウリスのイピゲネイア」を自由研究として発表し、優秀な成績を取った……というセリフが出てきました。キムの設定は12歳で、彼女の知的レベルが相当に高いことが伺いしれます。
彼女ら一家は瀟洒な屋敷に暮らし、どこからどう見ても申し分ない家庭です。
しかし、権威ある心臓外科医の父スティーヴンは、一見厳格そうに見えるけれど、酒を引っ掛けてオペをするような側面がある(そのせいでマーティンの父親は死ぬ)。
また眼科医をしている母のアナも、どちらかと言えば息子のボブを溺愛していて、娘のキムにはさほど気持ちを向けていない。
自分以外は全部敵、という攻撃的な感情、そして満たされ安定しているからこその逃避願望、というものは思春期特有のものです。感情を強く押し出すことなく、本性を隠して生活する家族の中で、キムだけは血の通った人物として、描かれているように思います。
映画の後半で、地下に監禁されたマーティンが、彼の父親が亡くなった後、自分の母親とスティーブンが肉体関係を持つようになった、とアナに告白するシーンがありました。
年上のマーティンに寄せるほのかな恋心、母親にかわいがられる弟を疎ましく思う気持ち、一週間のうちにiPodを2台も無くしてしまったどんくさい自分───思春期には似たようなイライラを感じた経験がぼくにもあります。
「アウリスのイピゲネイア」とこの映画の関係を、監督のヨルゴス・ランティモスが海外メディアのインタビューでもたびたび発言しているのですが、彼は「アウリスのイピゲネイア」からの着想で脚本を書きはじめたわけではなく、脚本を執筆している途中に親和性に気づいた───と語っています。ギリシャ出身の彼にとって、神話の世界は小さい頃から見聞きし、血肉になっていて、ごく自然に彼に影響を与えるものだったのでしょう。
大雑把に言えば、愛する娘を犠牲に差し出すべきか父が悩み、娘の代わりに鹿が殺される、という共通していますが、「聖なる鹿殺し」と「アウリスのイピゲネイア」は似て非なる物語です。
もう一度繰り返しますが、この物語は「アウリスのイピゲネイア」を研究する中で、思春期の少女キムがこの物語のプロットを借りて、自分を抑圧する現実をメタファーとして変換したもの……というのが、ぼくの見立てBです。
左右対称を意識した画角、人物の後ろを追いかけるトラッキングショットなど、スタンリー・キューブリックを意識した画作りもすごくよかったし、キューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』で主演を張ったニコール・キッドマンがアナを演じ、息子のボブくんが『シャイニング』のダニーそっくりだったり、娘のキムが下着姿になるシーンも『アイズ・ワイド〜』でそっくりなシーンがあったり……と、個人的に大好きな映画でした。
90点は差し上げれるなあ───ってカンヌで脚本賞獲った映画を今更、褒めちぎるのもなんですが(笑)。
Amazon Prime会員の方はこちらで。
6月22日(月) CAN'T BUY A THRILL
昼前に役場や銀行などを回って、いくつかの用事を済ませた後、近所の温泉に行きました。
たまたま300円で入れるサービスデイだったのですが、平日の正午ともなると、ガラガラ。露天風呂もひとりじめ。
15分ほど寛いでると、20歳前後の若者2人がやってきました。
ひとりは痩せぎす、茶髪ピアスのいかにも今どきな若者。もうひとりは筋肉質でがっちりした体型の体育会系タイプ。ふたりともおそらく大学生でしょう。露天と言ってもそんなに大きな風呂ではないので、彼らの会話はずっとぼくにも丸聞こえで、痩せぎすの方が喋り続け、がっちり系がずっと聞き役です。
痩せぎす君いわく、彼の妹の勤務先では、社員に上限100万円まで低金利でお金を貸す制度があって、その年利が2%なんだ、と。
で、彼は妹に頼んでその金を借りてもらって、妹に手数料として5,000円を渡し、カネに困っている友達に5%の利子付きで貸して、差額の1万5千円が臨時収入になった……と、がっちり君に話していました。
そのあと、痩せぎす君はおおむねこんなことを付け加えました。
「自分が何もしなければ、お金は動かなかった。妹も損はしていないし、お金に困っていた〇〇も消費者金融で借りるより、俺から借りるほうが安心だし、得をしたはずだ。俺たちもじきにサラリーマンになれば、毎月決まった給料をもらえて生活は安定するだろうけど、こんな時代だし何が起きるかわからない。退職金や年金だってもらえないかもしれない。だからこういうふうに積極的にお金を動かして、自分からお金を少しでも勝ち取りにいかないと豊かにはなれないんだ」と。
ぼくはここまで聞いて、洗い場で身体を洗い、ジャグジーと水風呂でさっぱりして、ふたたび露天風呂に戻ったのですが、彼ら……というか、痩せぎす君はまだ熱心に話をしていました。
「〇〇さんが言うには、ゴールドステージというのがあって───」
どうやら今度はマルチ商法の話のようです。
ぼくが戻ってくると、ふたりは露天風呂を立ち去っていきました。
さて、あと一週間ほどで51歳になる、君たちの父親と言ってもいい年代のぼくが、若者たちに言っておくことがあるとすればだね、ぼくや君たちのように、平日の昼間から露天風呂に浸かっていても、誰からも怒られず、食うに困るような生活じゃないということって、けっこう豊かなんだよ。
たしかに君たちが生きてきたこの20年というのは、けっこうハードだったと思う。これからの20年だってすごくハードでしょう。そのことは大人のひとりとして同情もするし、反省もする。豊かさというものに対して、ぼくとまったく違う考え方になるのも理解できる。お金に貪欲なことも決して悪いことじゃない。たしかにお金っていうのは、人が人らしく生きるための最後のアンカーとしてはとても大事な道具だから。
ただしね、ぼくが誰もいない露天風呂で、梅雨の合間のすばらしい青空の下、ひとりのんびりお湯を満喫していた時間は、君たちが突然現れたことで、ある種、台無しになったんだ。
しかも、さっきの会話だって、およそどこかのセミナーか、啓発本か、マルチやってる先輩の入れ知恵ってところだろうし、自前の考えではないだろう。
でも、ぼくはそれを非難したりしない。自分だけの宝物のような時間は、自分の思う通りに手に入らないし、予期せぬ人が現れて、簡単に台無しになってしまう。人生とはそういうものだ。
だからせめて、君の知恵も、言葉も、そしてポケットに入っている幾ばくかのお金も、ちゃんと手応えのある方法で稼いだほうがずっといい。
ボブ・ディランが書いた「It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry」───スティーリー・ダンの『Can't Buy A Thrill』というアルバムタイトルの元になった曲があるのですが、冒頭の部分だけちょっと訳してみます。
ぼくはスリルを「好奇心」と訳してみましたがどうでしょうか。
好奇心というのはお金じゃ買えない大事なものなので。
ディランのヴァージョンは『追憶のハイウェイ61』に収録されてますが、ぼくはトレイシー・ネルソンのカヴァーバージョンが大好きです。
トレイシー・ネルソンは70年代、いわゆるフラワームーブメントの頃、マザーアースというバンドのヴォーカリストとしてデビューして、その後、ソロ歌手に転身しました。
この曲は1974年に出たセルフタイトルのアルバム『Tracy Nelson』に入っていて、ボブ・ジョンストン(ディランの『追憶〜』、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』を手掛けた)がプロデュースしました。
マック・ゲイデンのクレイジーなスライドギターソロがかっこいいし、アラン・トゥーサンが担当したホーンアレンジもごきげんです。ディランのヴァージョンより、ぐっとファンキーに仕上がっていて、長年愛聴しています。
それこそ最初にこのレコードを聴いたのは大学生の頃。痩せぎす君やがっちり君くらいの年齢のときだったな。
ぼくの友人や先輩たちにはお金儲けなんてさらさら関心がなく、財布に500円入っていたらレコードか古本を買うような連中ばっかりだったので、今じゃこんな大人になりました。相変わらず大学の頃と似たような人生だけど、けっこう楽しいよ。
6月23日(火) パスタ記念日
ちょっと前にキッチンスケールを買ったことを報告しましたが、別の十数年来の疑問がそのおかげで解決したよ、って話。
ぼくは最低でも2日に1回はパスタ作ってるパスター(こんな言葉あるのか?)なんですが、スーパーで買ってきたパスタは袋からすぐに出して、十数年前、ブイトーニのパスタを買ってきた時におまけで付いてきたケースに入れて保管しています。
そのケースにはスライド式の口が付いていて、いちいち蓋を取らずとも、1人前(100g)ならスライドをひとずらし、2人前ならふたずらしすれば、ちょうどいい分量が取り出せてなかなか便利なのです。
しかし、ぼくはそのケースで測れる1人前の分量に、長いこと疑問を感じていました。つまり「1人前にしては、ちょっと少ないんじゃないの?」ってことです。
夜食的に食べる量としては丁度いいな、と思うのだけど、お昼や夜にガッツリ食べたいときはやや物足りなくて、1人前を出した後、追加で少量足して茹でていました。でね、その追加分を出す時にいつもベーコンではなく、心を痛めてたんですよ。「ああ、この追加分で太っていくんだ!」と。
で、今日の昼。
いつものようにぼくはパスタを茹でようとしていました。
量はブイトーニが示す1人前+αです。
そんなとき、ぼくの目の端にキッチンスケールが入りました。
そういや、これがあればちゃんと重さを測れるじゃん、と。
さっそく測ってみましたよ。
コンニャロー! だいぶ少ないじゃねえか!
俺の良心の呵責返せ!
6月24日(水) A SMALL CYCLE OF FRIENDS
調べ物をしていて、たまたま目にした記事。
海外ではインターンシップってとても盛んですよね。
民間だけでなく、ホワイトハウスとかFBIみたいな政府組織もこうしたインターン生をたくさん抱えてます。
ほとんどのケースで無給。働いているからといって、そのまま就職できる保証も無い。
一見、雇い主側のメリットしか感じられないけれど、いわゆる師匠と弟子みたいな考え方なんでしょうね。芸や仕事は目で盗め、というか。
ぼくもインターンの経験こそありませんが、二十代後半からフリーランスとして働く中で、誰かの仕事を金銭的な見返りはなく手伝ったりすることで、自分らしさ、みたいなものを見つけていった気がします。
そして師匠や先輩、あるいは友人同士との小さなサークルの中になんとなく居場所を見つけ、その中を血液のように循環(サイクル)していく才能ある人々、仕事、アイディアに触れながら、自分だけの能力や技術というものを実践的に身に着けていきました。
インターンシップって日本ではそこまで盛んじゃないけど、これからの時代にはもっとこういう学校以外の学びの場が、単位のためとかキャリアアップのためだけでなく、もっと自由に行われたらいいなと思います。
フランスの哲学者イヴァン・イリイチ *1 が指摘したように、人間によって発明されたどんな道具も、人間の働きを支え、生活を便利で豊かにしてくれるけれど、むしろそれは人間を道具の奴隷に変えてしまいます。
封建的な社会だった頃は、ヨーロッパでも日本でも師匠と弟子のような関係性で働くことが、クラフトマンシップを支え、有益な部分も大いにありました。
でも、年端もいかない子供が親に売られるように働かされたり、搾取されたりすることもあったのも事実です。だから子供のうちは学校に通って、きちんと勉強させましょうね、ということになったわけです。
しかし、人間が効率よく学習するために発明した道具である〈学校〉も、人間をある意味で〈奴隷化〉しています。
朝、学校に閉じ込められた子どもたちは、大人が許すまで解放してもらえません。そういう生活様式を仕込まれた人間は、学校を出た途端、今度は会社に入ります。そして大人になっても電車に乗り、会社のなかで始業から終業まで従順に一日を送る───という日々を過ごすわけです。
「たしかに元通りの生活になってほしいと思ったけど、こういうことじゃないんだよな」と悩みながら、満員電車に揺られている人も多いんじゃないですかね。今回のコロナ禍によって、学校や会社のありかたを根本的に見直すチャンスが訪れましたけど、100年以上も奴隷化された人々のライフスタイルを改善するのは、そう容易ではありません。
ただ、すぐには難しいかもしれませんが、こうしたインターンシップもNEW NORMの中で活かされるんじゃないかなあ、と思ってます。
それにしても、冒頭のインタビューの中で紹介されてたピーナッツ・バター・ウルフがビースティのステージにカセット投げた話は痺れましたね。その後、彼はビースティのマイクDと共作で、こんなミックスも作ってます。
ぼくもレコード屋(マニュアル・オブ・エラーズ)で働いていたとき、来店した細野晴臣さんに大学時代から所属していたバンド、Vagabondのデモテープを渡し、それが縁で細野さんの主宰するdaisyworldからCDを出すことになりました。
逆にぼくもいろんな人同士をつなげたり、才能を見出して、世に出るお手伝いをしたりした人も少なからずいて、なにかしらサイクルのお手伝いはしてきたつもりです。
心のどこかで感謝してくれてたらいいなと思いますけど、案外そういう恩って受けたほうは忘れがちだったりするものですね。
6月24日(木) ΚΥΚΛΟΣ
もともと英語のサイクル(Cycle)の語源は、ギリシャ語で円や輪を意味する「ΚΥΚΛΟΣ(Kyklos)」から来ているそうです。また、*1
サイクルというのは、循環を維持するだけでは勢いがどうしても落ちていきます。会社、バンド、劇団、雑誌、テレビ番組にしても、長く続ければ続けるほどマンネリ化し、その求心力はあっという間に低下します。じゃあ闇雲に新しい力を入れればいいかというと、そうでもなくて。その塩梅がとても難しいですよね。
先ごろ表面化した映画配給会社「アップリンク」の浅井隆さんのパワハラ訴訟、そして彼が発表した謝罪声明、訴えた側の意見などを読んでいると、サイクルの維持の難しさを感じます。
ぼくがShop33で働いていた頃は、アップリンクもまだ立ち上がって数年の会社でした。
最初期はまだ浅井さん個人で動いている、という感じでしたが、雑誌『骰子』の創刊、UPLINK FACTORYが渋谷に立ち上がったりして、スタッフも徐々に増え、小さな映画配給会社から最初の脱皮を始めていた頃でもありました。
知り合いの何人かも『骰子』に執筆者として関わっていたり、雑誌の取引先として仕事上のお付き合いもあったので、浅井さんとも何度かその時期にお会いしました。
UPLINK FACTORYへ行った時も、しょっちゅうお見かけしましたが、ぼくの受けた印象は「パワフルな一匹狼」というひと言につきます。
だから今回の報道を目にした時も、それほど驚きは無かったんですが(もちろんパワハラの有無はわかりません)、いつのまにか100人以上の従業員を抱える会社にアップリンクが成長していたことに正直、驚きました。
サイクルは順調に回れば回るほど、強い遠心力が働いて、円は外に外に拡がっていきます。その中心には、やはり自分あってこそ……という強烈な自負も浅井さんにあったでしょうし、軸としての彼の存在感は自他とも認めるものだったはずです。
しかし、どんなに丈夫サイクルの軸でも劣化していきます。はたして回転を止めずに劣化した軸の交換をすることは可能なのでしょうか?
軸の材質や構造が個性的で、唯一無二であればあるほど、それは難しいように思います。だからといって、見て見ぬ振りをして、回し続ければいいというわけではありません。
だからこそ最初に引用したインタビューの中で、Peanut Butter Wolfが語っているように、「Stones ThrowにMadlibはふたり要らないから」という理由でFlying Lotusをあえてサイクルに入れなかった判断、Flying Lotusもそれにめげることなく、Brainfeederという彼オリジナルのサイクルを立ち上げた話が、とても良質なエピソードに思えるのです。
このエピソードもぼくの好きなサイクルの一例。
6月25日(金) Da 5 Bloods
撮影するにはギリギリのタイミング、公開するにはこれ以上無いタイミングでリリースされたスパイク・リーの新作『ザ・ファイブ・ブラッズ』。
観る前は正直2時間34分というランニングタイムにたじろいでたんだけど、ハリウッドの娯楽作の方程式=三幕構成にきっちりなっていて、飽きることなく一気に完走しました。
あらすじを簡単に───ベトナムの激戦地で共に闘った5人の黒人兵士、ノーマン、ポール、エディ、オーティス、メルヴィン。彼らは偶然、アメリカ軍が運んでいたCIAの工作資金である金の延べ棒を発見します。その後、リーダー格のノーマンがベトコンとの戦闘中に死亡。遺体と共に延べ棒を埋葬し、彼らはベトナムを去ります。
それから40年後、ポールの息子デイビッドとベトナム人ガイドと共に、ノーマンの遺骨と金の延べ棒の回収に、4人はベトナムのジャングルへふたたび入っていく───というお話。
もともとの脚本では白人の帰還兵が主役だったのですが、スパイク・リーの手に渡ったことで、黒人兵士の物語にリライトされたそうです。
昔、父親と一緒に『地獄の7人』という映画を見たことがあります。
調べてみると1984年6月に日本公開されているので、今からちょうど36年前。ぼくは14歳ですね。
ジーン・ハックマン演じる元軍人が、10年経ってもベトナムから帰還しない息子を救出するべく、かつての戦友を集めて収容所に向かうという映画でした。監督は『ランボー』のテッド・コッチェフ、製作総指揮は『地獄の黙示録』の脚本も書いたジョン・ミリアス。盤石の布陣ですね。
原題は『Uncommon Valor(並外れた勇気)』で、地獄も、七人も、まったく関係ないのですが、当時は邦題に「地獄の」つけてれば、バカな男たちが惹かれてホイホイ観に行ってたし(つまりわれわれ父子)、ジョン・ミリアスは黒澤明が大好きだったので、救出チームも7人にしたのは明白。まあ、直訳の「並外れた勇気」よりか、映画としてはずいぶんいいタイトルですね。*1
その36年前に映画館で見たっきりなんですが、めちゃくちゃおもしろかった記憶だけがいまだに残ってます。ただただ乱暴(ランボー)な映画でしたけどね。息子のため、という大義のもとに「並外れた勇気」を発揮したアメリカ人が、ふたたび名もなきアジア人の命を奪っていく話なので。
主役が白人から黒人に変わろうと、この『ザ・ファイブ・ブラッズ』にも『地獄の7人』と共通する感覚が確実にありましたけどね。
ちなみにこの映画の撮影は2019年3月から現在のハノイを中心に現地ベトナムでロケーションされたそうです。『地獄の黙示録』など、80年代前半にあまた作られたベトナム物の映画はフィリピンなど、他の東南アジアの国で撮影されていました。
『ザ・ファイブ・ブラッズ』では嘲笑の対象になっていた『ランボー / 怒りの脱出』にいたっては隣国のメキシコで撮影されたそうです。どうりでやけにカラッとした風景だったはずだ……。
もちろんこれには理由があって、1995年のクリントン政権の頃まで、アメリカとベトナムは国交が回復していなかったからです。
ちなみに主役たちの名前───ノーマン、ポール、エディ、オーティス、メルヴィン、デイヴィッドというのは、モータウンレコードの至宝、ザ・テンプテーションズのメンバー名にそれぞれちなんでいます。
ザ・テンプテーションズはオリジナルメンバーのオーティス・ウィリアムズ以外のメンバーを総入れ替えして現在も活動中ですが、"The Classic Five"と呼ばれる黄金期のメンバーが、ポール・ウィリアムズ、エディ・ケンドリックス、オーティス・ウィリアムズ、メルヴィン・フランクリン、そしてデイヴィッド・ラフィンなのです。
あれ、ノーマンがいないじゃん、とお気づきの方もいるかと思いますが、実は彼らのプロデューサーのノーマン・ホィットフィールドにちなんでいます。おしゃれですね。
6月26日(土) HAIM
ロスアンゼルス出身の三姉妹バンド、HAIMのニューアルバム『Women In Music Pt. III』がリリースされたのでさっそく聴きました。
4月末に予定されてたリリースがCOVID-19の影響で8月末に延期され、がっかりしてたら、急遽、繰り上がったみたいで。デジタルリリースが主流になった今だからこそできる戦略変更ですね。
好きなんですよね、HAIM。
どの作品にも西海岸のカラッとした空気感が詰まってて。サウンドプロデューサーで、次女ダニエルのパートナーでもあるアリエル・レヒトシェイドがものすごく才能ある人なんです。Vampire Weekend、Adele、Beyoncé、Solange、Sky Ferreira……いいなと思う作品にかならずこの人の名前があって。しかし、彼は若くして癌(精巣癌)を患ってしまい、彼への愛、エールを込めて、ダニエルがツアー先で書いた楽曲が、昨年夏にリリースされ、今回のアルバムではボートラ扱いの"Summer Girl"。
ちょっとルー・リードの「Walk On The Wild Side」を彷彿とするような楽曲ですね。HAIMってどんなバンドなの? って聴かれたら、これをおすすめします。
ミュージックビデオの監督はおなじみのポール・トーマス・アンダーソン。今回のアルバムジャケットも、ロスの超名所"Canter's" *1 というレストラン&デリカテッセンのカウンターで、ポール・トーマス・アンダーソンが撮影したスチル。"Summer Girl"のMVの中間あたりに登場するレストランが"Canter's"です。
ちなみに、デリのシーンの次に登場する映画館はクエンティン・タランティーノがオーナーの"New Beverly Cinema"です。
先週土曜日に紹介したプリンスの「ボルティモア」じゃないですが、恥ずかしながら、この曲にそんなバックグラウンドがあることを今、知りました。たしかにリリックを読むと、ああなるほどって思うところが多々ありますね。ちょっと歌詞を訳したものを載せてみますね。
ダニエルの愛のパワーが届き、アリエルの癌は完治したそうです。
ステイホーム期間中、彼女たちはアメリカの主要なトーク番組にライヴゲストとして登場して、今回のアルバムからの楽曲を演奏していました。
特に素晴らしかったのが、このスティーヴン・コルベアのショーでのパフォーマンス。
最後の最後まで必見です。
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