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5回転トゥループ

2026年2月。ミラノ・コルティナ冬季五輪、男子フィギュアスケート。
フリー6分間練習。
最終グループ6人の中に、アンジェナ・トロツカヤはいた。
北京五輪の女子シングル銀メダリスト、その人である。

4年前。5度も4回転を跳んだのに、銀メダルだった。
悔しくて、悲しくて、セレモニー前に

「なぜ私が金メダルじゃないの! こんなスポーツ大嫌い!」

とコーチにつっかかり、泣き叫んだ姿が全世界に放送されてしまった。いま見返して、あちゃーって思うけど、あの時は気が動転して周りを気にする余裕がなかったのよ。

どれだけ高難度ジャンプを跳んでも、芸術面にケチをつけられて、私は優勝させてもらえない。私は技術面では、男子メダリストに比肩する点が取れる。ならば、と、北京の翌シーズンから新たにできたルールにのっとり、男子シングルに転向したわけ。

【新ルール】ジェンダーフリーを考慮し、女子が男子シングルに出場することを認める。ただし身体能力の優位性により、男子が女子シングルに出場することは認めない。

このルールで女子から男子に移った選手は、私だけ。私に同情した偉い人が作ったルールだと噂されているけど、真相は知らない。とにかく、SPから4回転が跳べるから、私には大チャンスだわ。
もちろん、苦手なトリプルアクセルを死ぬ気で取得したのよ。ダブルアクセルで五輪銀メダルを獲った男子もいるけど、金メダルはやっぱり、ね。
「女も黙ってトリプルアクセル」よ。

北京のあと、私はコーチのエカテリーナの元を飛び出し、カナダへ渡った。金メダリストをたくさん生むカーターの元でトレーニングを積んだけど、ジャンプが跳べなくなり、試合でも失敗続きだった。
まさか……エカテリーナのとこの食事にクスリが入ってたのかしら……?
いやだ、冗談じゃない。カナダの水が合わないせいよ。

焦った私は、昔お世話になったティモシェンコに頭を下げて、今はロシアに戻り、彼のところでトレーニングしてる。ジャンプの精度も戻って、昨シーズンの世界選手権では金メダルを獲ったわ(男子カテゴリでよ!)。

ティモシェンコは、クスリを絶対に許さない人なので安心してる。……けど、慎重に慎重を重ねて、食事も飲み物も自分で用意して、絶対に誰にも触らせないし、クラブで出されるものは決して口に入れないの。ティモシェンコを信用してないわけではないけど、わが祖国のやることは本当になんでもありだから。

五輪という人生で一番大事な舞台で、クスリが検出されたりしたら終わりだもの。

……そう、ナターリャ・ヴァシレフスカヤ……北京のフリー、彼女の演技は痛々しすぎて見ていられず、途中でグリーンルームを出ちゃった。
彼女がシロかクロかは、チームメイトだった私でも分からない。ただ、あのドーピング騒動があってから、エカテリーナを信用できなくなったのよね。それで、彼女から離れた。エカテリーナ自身も、わが祖国に操られているだけの気がするけど。

あの騒動は結局、うやむやに終わったが、ナターリャもエカテリーナから去り、アメリカへ渡った。でもやっぱり私と同じでうまくいかず、引退しようとしていた彼女に手を差し伸べたのは、日本だった。4回転を2本に減らし、トリプルアクセルは無くなった。けど、元々美しかったスケーティングにさらに磨きがかかり、表現の面でもずいぶん深みが増した。天国と地獄の両方を味わい過ぎたもんね。

日本国籍を取り、日本から出場する彼女は、女子の金メダル候補と騒がれている。4年前と同じね。ずいぶん苦労しただろうから、彼女がベストな演技をするよう願っているわ。ちなみにわが祖国は2023年にロシア名に戻る約束だったのに、4年前の騒動のせいで、未だROCの名称で出場してるの、笑っちゃう。

さて、私について話を戻すわよ。
5回転トゥループを、フリー冒頭で披露するつもり。
決まれば世界初の5回転ジャンパーよ。

5回転はロシアのゴンチャロフや日本の鐘山、三澤など複数の選手がチャレンジしているけど、試合で成功させた人はまだいない。成功に一番近いと言われているのが、認定だけはもらってる私と、イタリアのガブリエリよ。

そう、ディエゴ・ガブリエリ。SPで私を抜き、トップに立ちやがったあいつ。いま私の横を通過しながら、ウィンクしたわ。
彼も5回転トゥループにトライしている。ミラノに来てからの練習でトライして派手にすっころんだので私、大笑いして、直後に完璧な5回転トゥループを跳んでやった。

マスコミがどよめいた。フフン。
こっちに来てからかなり調子がいいわ。
そしたらガブリエリの奴、私のとこにきて、にやにやしながら、

「気が強い女の子って、好きだな」

ですって。なんなんキンモーッ!
イタリア男って噂通り、ナンパ野郎だなと思ってたら、

「もし僕が金メダル獲ったらデートしてくれる?」

だと……。
21のこの歳までデートなんかしたことない。スケートひとすじだったもの。オエッ!ってなったけど、私ももう子供じゃないから「あら、いいわよ」と社交辞令で返してやった。
おあいにくさま。金メダルを獲るのは、この私よ。

SPのガブリエリとの点差は、わずか2.78点。フリーでは奴は5回転トゥループ1本、4回転3本。私は5回転トゥループ1本、4回転4本。あんなへなちょこトゥループが成功するわけない。私の勝ちは決まったも同然。事実、さっきの私のジャンプを見たマスコミは、さっそくトロツカヤ有利と書き立てた。

ちなみに、私のフリー曲は「カルメン」。
ティモシェンコは渋い顔をしたけれど(無理もない)、私は私の好きな曲で滑るわ。私が演じるのは、カルメンとエスカミーリョの両方よ。

さあ、金メダルへ――。
リンク中央でポーズを取る。音楽が始まった。

審査員席を、彼らの顔をひとりひとりガン見しながら通り過ぎた。
よっく見てなさい。
大きく弧を描き、トゥループの軌道に入る。左足のトゥを突いた。

「ヤッッッ!!!」

ああああああああああ

飛び上がった瞬間、リンクが、歓声が消えた。四方八方が真っ暗だ。
私は、暗黒の宙に浮いている。

????? なんなの、これ。

と、前方に、一粒の光が浮かんだ。光は徐々に大きくなり、その中にひとりの禿げた老人が現れた。

「これは一体なに? 誰よあんた!?」

「わしは、スケートの神様じゃ」

「ハァ?……だったら、早く試合に戻してよ!!」

「お嬢さん。ここに2つの未来がある。5回転トゥループが成功し、金メダリストとなる。だが明後日、君は心臓発作で死ぬ。これが1つ目の未来」

私はゴクリと唾を飲み込んだ。

「2つ目の未来。5回転トゥループに失敗し、金メダルも逃す。だが愛されるスケーターとして君は長く活躍し、引退後も安泰の生涯を送る」

私は瞬きもせず、老人――神様――を見詰めた。

「さあ、どちらを選ぶ? 時間がないぞよ。10、9、 8、7……」

「ちょちょちょ、ちょっと待って――――」

ズサァッ。
突然、周囲が明るくなった。会場に戻った。歓声が悲鳴が入り乱れる。
それからあとは――――。

セレモニーが終わった。
リンクを去る私を追いかけて、ガブリエリが囁いた。

「約束だよ。デート」

なんなん、自分はウキウキだからって、落ち込んでる相手にそんなこと言う?

そう、私は、金メダルを逃した。5回転トゥループは成功したが、後のジャンプに乱れが出て、銀メダル。4年前と同じだ。
だけど、今度はわめいたりしない。もう大人だし、世界初・5回転ジャンパーの名誉を得たもの。

ガブリエリは5回転トゥループで転倒したが、後のジャンプはまとめて金メダル。

「フン、あんたの5回転へったくそ。永遠に成功は無しね」

「いいねえ、相変わらず気が強くて。さて、とっておきの店を予約したよ。仔牛の煮込みがうまいんだ」

約束は約束。1度だけならいいか……と、翌日、彼に付き合った。仔牛の煮込みは、確かにとても美味しかった。そのあとゴンドラに乗って、サッカー観戦して……

なんか意外と、楽しかったのよね。

メダリスト2人のデートだからマスコミにも一般人にも撮られまくって大変だったけど、ディエゴって、堂々としてるの。撮りたかったら撮れば?って感じで。こそこそするのは私も大嫌いだから、なんか好感持っちゃった。それにイタリア男子って、マメでやさしい。

で、今日は3度目のデート。フランスまで足を延ばしてる。閉会式はとっくに過ぎちゃって、早く帰ってこい!ってティモシェンコにちょっと怒られちゃった。

なんだか、らしくないなあと思いつつ、私、結構楽しんじゃってるかも。

――あの時、スケートの神様に、どう返事したのかって?

「どっちの未来もいやよ! 自分の未来は自分で決めるわよ!」

私らしいと思わない?

それに、金メダルは欲しいけど、この若さで死んじゃったら、「やっぱりクスリやってたんだ」って言われかねないもの。


【この短編はフィクションです。実在の人物や団体などとは全く関係ありません】