見出し画像

小話・百済観音像

法隆寺・大宝蔵院にて百済観音像の梱包が行われていた。年始~三月に東京国立博物館の特別展にて展示するためである。専門業者が呼ばれ、作業は順調に進んでいた。昼休憩になり、一人を残して全員が外へ出た。残った男は持参したおにぎりを食べながら、下部だけ包まれた百済観音像の周りをぐるっと一周してみた。

普段これほど近くでじっくり拝めることはできない。男は穴の開くほど百済観音像を見詰めた。おやさしい面立ち。じっとみていると御体が揺れているように思えてき、その波の間に吸い込まれそうになる。どこのどなたが造った仏さまかわからぬが、たとえ無名の者の手によるものだとしても、よいものはよいのだと心が訴えてくる。

と、床に転がったドライバーに躓き、男は百済観音像に寄り掛かった。その拍子に水瓶を持つ左手の小指がぽっきり折れた。

「ああっ…」国宝の損傷は新聞沙汰である。男は呻いた。これが明るみになれば自分は二度とこのような大仕事を任せてもらえないだろう。仕事自体を失うかもしれない。もうすぐ皆帰ってくる。動転した男はとりあえずの処置で食べていたおにぎりの米粒を練り、小指に擦り付け、折れた左手にくっつけた。千四百年を経てからからに乾いた楠はうまい具合に米の粘度を吸着し、驚くべきことに小指はピタッとくっついた。

男が用具箱をあさり強力セメダインを探していたところにどやどやと仲間が帰ってきた。「さあ、早くトラックに乗せんと」青ざめた男の前で百済観音像が梱包されてゆく。もし小指が落ちても名乗り出るわけにはいかない。知らんふりするつもりであった。しかし奇跡的に小指はつながったまま作業は完了し、トラックに乗せられ東京へと運ばれた。

特別展の間、小指が取れないかと男は恐々としていたがそのような報せはなく、法隆寺に戻ってきてから隈なく点検した。以前からあったらしい罅割れは走っているものの派手に折れた形跡がない。狐につままれたようであった。

これは約二十年の話。いま大宝蔵院におわします百済観音像の左手の小指は、ご飯粒でつながっているのです。


#フィクションです


この記事が参加している募集

眠れない夜に