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マッチ売りのエマ #SS

 雪が激しくなってきた。マッチ売りのエマは民家の庇の下にいた。その壁に座り込み、身動きできない。お腹がすいた。朝から何も食べていない。誰もマッチを買ってくれない。

 もう、疲れた。……目を閉じる。
 どれほどの時間が経ったろうか。頬に温かい手がふれた。

「君、ここで寝たら凍え死んでしまうよ。僕の家においで」

 高価なコートにくるまった金髪の男。碧色の瞳に見つめられてエマは顔を赤らめた。なんて美しい男だろう。むかし絵本で見た神話の神様にそっくりだ。

 男に手を引かれ、エマは馬車に乗った。馬車は大きな屋敷へ到着した。

「暖炉にもっと薪をくべて、食べ物をたくさん用意して!」

 並べられたご馳走の山に面くらいつつ、エマは男に礼を言い、鴨のスープを啜った。こんなおいしいスープは飲んだことがない。涙ぐむエマを、テーブルの向こうから男がにこにこしながら見つめている。

「お腹いっぱい食べるんだよ。食事が終わったら広間で踊ろう」

 食事が終わるとエマに美しいドレスが用意された。男はエマの手を取り、もう一方の手は彼女の腰を抱き、ワルツのリズムを取った。

「僕はエロス。今夜はめいっぱい楽しもう」

 ダンスなどしたことはなかったが、エマはエロスのリードでぎこちなく足を踏んだ。彼に合わせてくるくる回った。とろけるような音楽、きらめくシャンデリア。

 どうしたのだろう。私、魔法にかかったみたい!

 実は、これはエマの夢なのだ。死にゆくエマを不憫に思い、天界のゼウスが部下のエロスをエマの夢に派遣したのである。死へ、せめて楽しい夢を見ながら旅立ってほしい。

 エロスは思った。この子はたぶん、男を知らない。女としての快楽を一度も味あわずに死ぬのはなんと不幸であろうか。エロスは踊りながらエマの唇に自らの唇を押し付けた。エマは驚いたが、もう、エロスのなすがままだった。

「エマ。……夜明けまで、一緒に踊ろう」
 

 鳥の声で目が覚めた。ベッドの中。隣に愛するエロスがいる。エマが情事の余韻にひたっていると、鍵を開ける音がした。どすどすどす。シーツが剝がされた。

「この子だれ? どういうこと?」

「プシュケ! 旅行は明日までじゃないのか」

 目の前に美貌の女が仁王立ちしている。

「何だがいやな予感がして一日早く戻ったのよ。案の定このありさまだわ。今度また浮気したら別れるって言ったよね?」

 エロスは昨夜までの自信ぶりが影を潜めたようにうなだれて、ベッドの上で正座している。

「とりあえずパンツはきなさいよ。あんたも」

 プシュケに促され、二人ともベッドに散らかしたパンツを拾ってはいた。

「あのなプシュケ。これは浮気じゃなくて、人助けなんだ。実は、この子は今日限りの命なんだ。男を知らないで死ぬのって、あんまりかわいそうじゃないか」

「なにその言い訳。単に女とヤリたいだけじゃない」

 二人のやり取りを聞いていたエマが叫んだ。

「愛してるのは私だけって、このベッドの上で何度も言ったじゃない! 嘘つき! 私が今日死ぬっていうのも嘘よね? 信じられない!」

 プシュケとエマはそろってエロスに襲いかかった。馬乗りになったプシュケが逆エビ固めを決め、エマがその哀れな首を絞めた。

 天界から三人の喜悲劇を覗いていたゼウスは思った。エロスの気と精を受けて、大人しそうにみえたエマの中の勝気と生命力が目覚めたのだ。

「このまま死なせるのは惜しいなあ」

                 ◇

 行き交う人の気配でエマは目覚めた。雪の吹き込まない深い庇にもぐりこんだため幸い、凍死はまぬがれたようだ。

 寝てる間にへんな夢を見たわ。信じられないくらいおいしい食べ物、目も眩むシャンデリア、そして……。何だか、今も体じゅうに活力がみなぎっている。

 もう一度あのご馳走が食べたい。美しい殿方と素敵なことがしたい。それにはマッチなんか売ってる場合じゃないわ。今どきマッチなんて誰も使ってないのだから。

 大金を稼ぐにはどうすればいいか。貧民街へ行けば、知恵のついた悪党がわんさかいる。彼らに教えを乞うのよ。

 貧民街。これまでは怖くて絶対に近寄れなかった。女の身は危険このうえない。だけど、躊躇してる場合じゃない。いざとなれば腹をくくるのよ。人生、一か八かなんだから。

 エマは雪に埋もれた道を力強く駆け出した。


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