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擬態 其の一

 俺は聡。就職前のブランクイヤーでオーストラリアへ来た日本人だ。
 来る前から噂には聞いていたが、オーストラリアという国は賃金が高い。俺が働いていたメルボルンのバーでも時給が24ドルだった。当時の相場で2000円くらいにはなったと思う。
 在豪香港人のキャリアウーマンと仲良くなった俺は求婚されていた。俺はモテる。ワイルドな内田篤人を想像して貰えばいい。しかし、俺には結婚する気はなかった。オーストラリアに永住できるかもしれないと思うと、少し迷いもあったが、日本で内定をもらっていた俺は彼女との別れを決めた。
 彼女は勤めていた店の常連客でもあったので、俺は別れとともに店もやめた。他にやりたいこともなかったので、ワーホリビザを延長するための季節労働をしてみることにした。延長する気はなかったが、ビザを取得しておけば、旅行に来やすいと思ってのことだった。俺はファームを探し始めた。

 そうしてたどり着いたのがこのカブルチャーの地だ。ここにはイチゴファームでの仕事を斡旋するコンストラクターと呼ばれる組織があった。シーズンごとに農家とこのコンストラクターたちが契約を交わし、苗植えから無駄な葉や脇芽の処理、収穫、梱包、発送業務までを担当する。外国人労働者やワーキングホリデーでの出稼ぎ労働者が多いこの国では、このコンストラクターが一連の仕事を把握した上で、シーズンごとにメンバーを集めて実務を振り分けることが多い。特にイチゴは労働条件が厳しいので入れ替わりが激しい。労働条件が厳しいというのは、基本的な大規模農園はベッドと呼ばれるイチゴの苗が植えられた畝がグランドレベルにあるため腰を屈めての作用が主になるためだ。その上、単価が低いので獲っても獲っても稼げず、チーム内で良い列の取り合いが勃発する。そういう意味でも厳しい環境だ。
 さて、オーストラリアのイチゴ農園事情はこれくらいにして、俺が所属していたコンストラクターの紹介をしようと思う。リーダーは2人の台湾人男性で、それぞれに連れ添っている恋人が1人ずつ、計4人で主な運営が行われていた。この恋人の1人は日本人女性であった。俺はこの女性の投稿を見てチームに合流することになった。
 まだシーズンが始まる前の合流であったため、運営陣の他にはまだ誰もおらず、これからメンバーが増えていくということだった。メンバー集めに貢献するとお小遣いがもらえるとのことだったが、小賢しいことは苦手なので生返事で済ませた。
 数日は運営陣と同じ屋根の下で暮らし始めたが、彼らが言った通り、徐々に人が増え始め、そこで仲良くなった台湾人たちと他の家を充てがわれた。レントは週250ドルとやや高めだったが、苗植えの仕事も始まったので支払いには特に困らなかった。

 しかし、事件は起きた。苗植えの仕事が4週ほど続いたが、担当する農園のベッド全てに苗を植え終えるとしばらく仕事がなくなるというのだ。本来であればもう少しゆっくり植えて、最初に植えた苗の脇芽とりなどと並行して作業することで、仕事がないという事態は起きないらしいが、このシーズンは台風の影響で苗の到着が遅れていたこともあり、急いで苗植えを行うことになったらしい。
 つまり、まだ最初に植えた苗に手を着けられないし、植える場所もないということだ。どうやら2週間は仕事がないという見通しらしかった。
 俺は特に金に困っていたわけでもなかったが、稼ぎもないのに高いレントを払っているのは馬鹿らしいと思い始めていた。せっかく仲良くなった台湾人と別れるのも忍びなかったが、ファームハウスと呼ばれるレントの安い住まいがあることを聞きつけ、内見に行くことにした。どうやら今は最近チームに合流した日本人が1人で住んでいるらしかった。噂によると同室になった香港人と気が合わず、追い出したらしい。どんな狂人が住んでいるのか楽しみだ。

 コンテナハウスの扉を開けると、そこには長髪を頭の上で結った丸メガネの日本人が机に向かっていた。何をしているのか尋ねると、仕事がなくて暇だから『1Q84』を読んでいると言った。もっと破天荒な男かと思ったが、随分呑気なやつだ。しかし、一緒に暮らすならこれくらいのやつがいいかもしれない。そう思った俺はこの日に引っ越しを決めて、荷物を運び込んだ。
 丸メガネは随分暇をしてい多様で、俺が来たことを随分喜んでいた。ファームハウスでの様子を聞くと、他のチームの日本人やイタリア人と細やかなパーティーをして、飲んだくれ、何かわからないものを吸わされたり、裸で踊り明かしたりしているらしかった。うん、呑気ではあるがやはり破天荒だ。楽しくなりそうだ。

 毎日数人ずつファームハウスに入居するようになり、賑やかになっていった。それでも仕事がないと退屈してしまうので、本を読む丸メガネを誘い出して、筋トレをしたり、サッカーをしたり、悪い噂の立ったメンバーをいじりまくったりした。そういえば、野糞をして長いレシートでケツを拭いたこともあった。丸メガネは爆笑していた。

 そろそろ仕事が始まると思われた頃、他に良いファームを見つけたということで、賑やかな最古参のイタリア人たちが旅立っていった。丸メガネはそれを随分悲しがっていた。それを見兼ねた俺は、俺と丸メガネでこのファームハウスを賑やかに保とうと意思統合を図った。その結果ととして行われたのが、世にも珍しき「コカインピンポン」である。卓球台の白線をコカインに見立てて、それを勢いよく吸い込むふりをして、ハイテンションで行われる卓球だ。これは俺と丸メガネが英語の学習のために繰り返し観ていた『The Wolf of Wall Street』に影響されたアイデアであった。基本ローテンションで思慮深い丸メガネのあのような発狂した姿を見られるのは後にも先にもあの時だけであった。

 やっと2週間のデイオフが終わり、仕事が再開すると、俺たちの遊び場は農園になった。今思えば、労働者としてあるまじき行為だったと反省しているが、腐って商品にならないイチゴを気に食わない奴めがけて投げる「ストロベリーボム」を流行らせたのも我々二人だった。
 イチゴをぶつけておいて、何が起きたのかかわからず慌てふためく人間をそ知らぬ顔で眺めるあの悪戯心は、幾つになっても興奮するものだろう。
 イチゴを投げすぎるとファームオーナーにバレてクビになりかねないので、我々は次々に新しい遊びを考えた。トロリーと呼ばれるイチゴを摘む際に用いられる人力のワゴンによるレースや単純な獲れ高による勝負を楽しんだ。
 そのような生活を通して気心が知れた我々は、夜な夜な、二段ベッドの上段と下段にそれぞれ寝そべったまま語り合った。あの狭い部屋で語られたことは、時に女の話であり、時に宇宙の法則であったりした。丸メガネはおそらく相当なガリ勉体質で、博識であり、それでいて人の話を聞くのが上手かった。俺はあの時間が好きだった。
 それでも流石に男と毎晩一つ屋根の下で過ごし続けることには限界があり、俺は同じファームハウスを利用している他のチームの台湾人女性に目をつけ口説き始めた。

 最初にも言ったが、俺はモテる。内田篤人をワイルドにした感じを想像してくれ。そのルックスに加えて、バーテンダーとして鍛えた会話力を駆使すれば、外国人や英語に不慣れなアジア人を口説くなんてことは造作もない。
 まずは不信感を払拭するために適当な口実を与えてやればいい。
「みんな出かけちゃって暇なんだ、話し相手になってくれないか」
 みたいなことを言って、あとは質問責めにしつつ褒めまくれば、ほら、出来上がりだ。この眼だ。この眼が出来上がれば、不信感なんてものはもどこにもない。ただただ、受け入れる体制が整っている眼だよ。だが、ここで手を出してはいけない。そんなことをしてしまえば、翌る晩には不信感を芽生えさせてしまう。だから、初めての夜は出来るだけスマートに、それでいて優しく立ち去るのさ。
「長いこと外で話してしまったね。体をよく温めて、おやすみ」
 これで完璧さ。彼女は間違いなく、あぁまた早く会いたいと思って両腿の付け根を力ませるのさ。

 自分のコンテナに戻ると、丸メガネはもう床に着いていた。
「おかえり」
 丸メガネの声はいつも暖かい。
「口でしてもらってきた」
「お前は本当にすげーな、アグレッシブだ。日本に女はいないのか」
「日本にはセフレみたいな奴しかいないな」
「メルボルンで付き合ってた人ってのは?」
「あぁ割と好きだったよ。でも結婚はまだ考えられなかったからな。丸メガネは日本に女はいないのか」
「いたけれど、オーストラリアへ来る前に関係を『解消』してきたんだ。」
「解消?別れてきたってこと?」
「対外的にはそうなんだけれど、嫌いになったわけでもないし、遠距離恋愛できるほど愛してもいなかった。だから自然消滅になる前に交際関係を『解消』してきたんだよ」
「友達に戻ったみたいなこと?」
「そんなとこかな。結局今もお互いの日常をシェアし合っているけどね」
「最近描いてる手紙もその娘に宛てて書いているのか?」
「いや、あれはまた違う人に書いている。大学時代の同期と文通をしているんだ。聡は日本に帰ったらやりたい女っているか?」
 正直俺は、丸メガネからそんな質問が出るとは思わなかった。こいつはこいつでそれなりに遊んできたみたいだ。確かに理性的で体を動かすことも好むこの男はそれほど女ウケが悪いわけではないだろう。ただ、何か多くのことを抱え込んで考え込んでいることが多いように見えた。
「え、待って、セフレってこと?丸メガネもやることやってんなぁ」と、俺は一瞬の思考の後で応えた。
「事象だけ取り出すとセフレとしか言いようがないのだけれど、感情的な面を考慮するとそうとも言い切れない。つまり、お互いが本気で相手のことを好きなタイミングもあったのだけれど、そのタイミングが悉くズレていたんだ。視座を変えれば、相手に恋人がいるときには本気で奪いたくなり、振り向かれると興味を無くしてしまう、そんな破滅的な猛禽類の戦いだったのかもしれない。帰ったらそいつをまた口説きたくて、ああしてオーストラリアの紀行を認めているわけさ」
「丸メガネはロマンチストだな」
「そうかな」
「そうだよ」

 一瞬の沈黙が強力な睡眠導入剤になった。

 


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